『小さな勇気』
ずっと気になっていた店があった。
雑居ビルの1階の角、薄暗くて日当たりの悪い場所にある小さな喫茶店。
古書店街に行く度に、その路地を通って駅に向かっていた私は、チラチラと店の様子を窺いながらも入る勇気が出せずにいた。
2月のはじめ、寒波がきていてこれから雪が降るかもしれないという日。
いつものように後ろ髪を引かれながらも通り過ぎようとした私に、強い北風が吹きつけた。
低層ビルの間を通った風は思いの外勢いがあり、煽られた私はよろけて膝をついてしまった。
寒いし、痛いし、恥ずかしいし――なんかもう、いいや。
妙なスイッチが入ったのか、小さな勇気というよりは蛮勇のような勢いで、私はこれまでずっと横目で見るだけだったその店に足を踏み入れた。
カランコロン、と軽やかなベルの音。
薄暗いけれど暖かい店内。
寒かったので、紅茶とホットケーキを頼んだ。
ほんのり甘い香りに顔を上げると、昔ながらのシンプルでまあるいホットケーキが3段重なっていて、上にはアイスクリームディッシャーで掬い取られたらしい丸いバターが乗っている。
蜂蜜とシロップのどちらがいいか尋ねられたので、シロップにした。
ナイフがふんわりとした抵抗の後、飲み込まれる。バターの僅かな塩気とシロップのやさしい甘さ。
どこか懐かしく感じる味だった。
紅茶を一口飲んで、ほうと息をつく。
入ってよかったなぁ。
1/28/2025, 7:46:56 AM