『喪失感』
それを見つけた時、胸の鼓動が早まるのを感じた。
ああ、これは世界に一つだけなのだ、私のためだけに存在しているのだ、と。
逸る気持ちを抑え、踊るように近づくと、両手でそっと拾い上げた。
かつて世界に何千何万と(一説によれば億とも)存在したという「本」。
なんでも無数に文字が書かれていて、様々な内容があり、実用的なものの他に架空の物語まであるという。
それが、いま、私の手に!
感無量になりながら、恐る恐る紙をめくる。この一枚一枚を、頁というらしい。
すっかり魅せられ、惹き込まれた後に残るのは、途轍もない喪失感。
読んでしまった。
読み終わってしまった。
どうしてもっと時間をかけなかったのだろう。
いや、そもそも、どうして読み始めてしまったのだろう。
始まりがあれば、終わりが来るのに。
胸を抑えて、閉じた本を見る。
その時、天啓が降りた。
《もう一度読めばいいのでは?》
天才か!
『時を告げる』
「真っ暗な夜の海で独り、寄せては返す波をじっと見つめ続けてようやく見つけた、きらめく貝殻のようなもの」
友人は、真実とはそういうものだと言った。
そしてこれから、その真実を白日のもとに晒すのだと。
友人にとってはきらめく貝殻でも、人によっては顔を背けるような汚物になることも、唾棄すべき嫌悪の対象になることもあるだろう。
「哀しいことだね」
私にだけ聞こえた小さな呟き。
しかし、すぐに友人はそれまでの寂しげな表情をガラリと変えて、飄々とした顔つきでその場にいる皆に言い渡した。
彼が見つけた真実を差し出す時を告げる宣言を。
「さて皆さん、すべての謎は解けました」
『些細なことでも』
どうも、今年の町内会班長の当番の者です。
ちょっとよろしいかしら? ああ、そんなにお時間はとらせませんわ。些細なことですの。ここ、日差しがキツイですわね、中へ入っても? ええ、玄関先で結構です。お部屋までは上がり込みませんわ。それじゃあ、ドアを閉めさせていただいて。
さて、と。
実はね、ご近所さん方から苦情が出ておりますの。お宅のね、その、臭いが。ええ、何かこう、腐臭のような、そういう臭いがね、耐えられないと、まあね、夏ですしね。
率直に言うと、お宅、庭に何か埋めてらっしゃるでしょ? ああ、誤魔化さなくてもいいんですよ、分かっていますからね。ええ、私もご近所さん方も、みなさんね、知ってますから。
ちょっとね、埋め方が浅いんですよ。もっと深く埋めるか、家の床下にでも埋めれば、こんなに臭うことはなかったんじゃないかしら?
ちゃんとビニール袋に詰めるとか、ブルーシートに包むとかしました? まさか何もせずにそのまま埋めたりしてないでしょうね?
それに、先日の大雨で土が流されたのか、ちょっと見えてましてよ。ほら、埋め方が浅いから。あのままにしていると野良猫やらなんやらに掘り返されて、見た目も良くないでしょう?
お隣のSさんもベランダからそういうモノが見えるのは、ちょっと嫌でしょうし。そこら辺もご配慮いただきたいわ。
まあ、私もね、班長の役目がありますからね、こんな些細なことでも注意しないといけないんですよ。
それじゃあ、よろしくお願いしますね。改善されない場合には、ご近所トラブル処理係の方がいらっしゃいますので。では。
『不完全な僕』
料理がマズイ。
掃除が行き届かない。
出迎えに出るのが遅い。
気が利かない。
明るさがない。
そんな言葉を、どれだけ浴びせられただろうか。
私は妻であって、下僕ではないのだけれど。
うんざりしたので終わらせることにした。
「不完全な僕(しもべ)で申し訳ございません。つきましては、こちらの離婚届に御署名を」
『香水』
「寝る時に纏うのはシャネルの5番だけ」
そう言った女優の言葉は、あまりに有名だが、後々香水が人の性格を左右することになるとは、当時の人達は思ってもみなかっただろう。
通販で買い物をするのが当たり前になった今でも、化粧品や香水の類は対面販売で買う人が多い。
「こちら、“初対面の人とはきさくに話せるのに、知り合いの中に入ると上手く話せなくなる人”の香りです」
手渡されたテスターの一嗅ぎしてみる。
「こちらのほうは、“思っていることとは裏腹に、ツンケンした態度をとってしまう人”の香りになります」
どちらもピンとこない。
「でしたらこちら、“人と交わるのを好まない、厭世的な人”の香りはいかがでしょうか」
気に入った。
これにしよう。
孤独な香りを纏わせて、夜の街をぶらつくのも悪くない。