この場所が私の数ある居場所のうちの一つ。
沢山の言葉を生み出して、書き込む。
なかなか勇気が出せない私が勇気を出せる場所。
「もっと読みたい」と言われるほど私は私を好きになれる。
飽き性で身勝手で独りよがりな私が自分の為でありながら誰かに見せるためにも生きられる居場所。
でも何だって出来るわけじゃない。
言葉遣いとか意味とか、色々と自信がない部分だってある。
ありがとうだって恥ずかしいし、ここに書くのは場違いな気がして手が止まってしまう。
だからこうして間違ってるかもしれないと保険をかけてしまう。
でも書きたくなったのだ、言いたくなったのだ。
何時もは言えない言葉をここでなら。
この場所が私の居場所だと、
そう思わせてくれてありがとう。
誰もがみんな、という言葉をよく使ってきた。
例えばお小遣いがもっと欲しいときに、
「誰もがみんなもっとお小遣い貰ってる」
っておねだりするときとか。
でも結局はそんなに人数はいなくて、
「みんなって誰?」
と問われて俯いてしまう。
それに何人あげたところで、
「余所はよそ家はうち」
と言われるのだ。
でも"私は"って言っても説得力はない気がするから。
そうして私はお願いを滅多にしなくなった。
どうせ無理ってそう思ってしまうから。
言えばいいって言われても怖くてしかたがない。
私には説得力のある言葉なんて出せないから。
勝手に期待して勝手に裏切られるだけ。
どうせ駄目だって言うのなら言わせないで。
でもそれが苦しくて惨めだから、
「誰もがみんなそうやって生きていくんでしょ?」
と繰り返し自らに言い聞かせる。
でも誰もがみんなって誰だろう。
私は私以外の人のことを知らない。
だって聞いたことがない。
本当は分かってる。
みんながいないなら作ればいいってことくらい。
話して、聞いて、試して、前例を作っていけばいい。
でも私はやらなかった。
出来なかった。
嗚呼、誰もがみんな持ってる勇気が欲しい。
1000年先なんて誰にもわからない。
人が生きているとは限らないし、もしかしたら月に住んでるかもしれない。
それにまだこの地球に住んでるかもしれない。
でも私という人間は生きてはいないだろう。
1000年後は一体どんな世界になっているのだろうか。
見てみたい思いはあるけど行きたいとは思わない。
転生、という新たな人生があるのなら行きたいかもしれないが。
でも1000年経てば家族や友達は生きていないのだ。
なら未来に行ったって意味がない。
私はこの人生で何を成すのかが知りたいだけなのだから。
誰の人生にどんな影響を与えて、誰に影響を与えられて人生を変えてゆくのか。
私は1000年先も誰かに覚えていてくれるような人になれるのか。
本当はただ、それだけが知りたいのだ。
勿忘草。
私を忘れないで、そんな花言葉には由来となった話がある。
愛する二人が川のほとりで咲く小さな美しい花を見つけ、そして彼は愛する人の為に摘もうとする。
しかし彼は足を滑らして川の急流へと落ち、最後の力を振り絞り、掴んだその花を岸辺に投げ、
「私を忘れないで」
という言葉を残して亡くなってしまうのだ。
でもきっと彼女はそんなものがなくたって、忘れなかった筈だ。
その手を自分に伸ばしてくれたらたと、そう思ったに違いない。
最後の力は誰かに助けを求める為に使ったってよかったんじゃないだろうか。
大きな公園にブランコは2つだけ。
誰が座れるか走って取り合ったことを覚えている。
坂を登った上にある公園はたどり着いた頃にはヘトヘトで、それでも必死に走って。
横向きに座ってくるくる鎖を巻いて、動かせなくなったら一気に足を離して回転して遊んでいたのだつて朧気に覚えている。
雨が降った日は足元に水溜まりがあって、失敗して背中から水溜まりに落ちて背中を泥だらけにして帰ったことも。
ジャンプして遠くに飛び降りる友達の真似ができなくて悔しかったこともあった。
決して忘れたくない幸せな思い出。
必死に握った手に残るあの鉄の匂いをきっと私は忘れない。