「奇跡をもう一度、ご覧に入れましょう」
世にも奇妙な奇術師は、高らかにそういった。
舞台は地下で執り行われた。
天井は高く、観客席は低く。そして奇術師のいるステージはほどよい高さとなっていた。
奇術師の行うことは、ただ待つことだった。
タネも仕掛けもない。
事前にハトを用意したり、カードや杖、水槽なども持ち込むことはない。
そもそも、彼はマジックを行うこともない。
ペテン師である彼は、しかし、世界の25%程度の人たちを虜にさせた。それは今も、現段階で増え続けている。カルト的人気。それ以上の終末論的風潮。奇跡。彼の起こす奇跡。それを待ちのぞんだ。
十五年前、彼は「奇跡」を呼び起こした。
彼がテレビの公開収録の出演を承諾し、代わりに寄越した条件が「核シェルターを作ってほしい」とのことだった。
番組スタッフらは、マジックで何か使うのだろうと一人分には広すぎるほどの地下シェルターの設計図を渡したが、奇術師はにこりと笑い「これでは狭すぎる」といった。
「少なくともこれの100倍は欲しい」
「そんな規模のものは、私たちには作れない」
「なら、わたしの起こす奇跡に押しつぶされるがいい……」
奇術師はそう言って、颯爽と楽屋をあとにした。
数年後、彼はYouTubeで25万人を抱えるYouTuberになっていた。生配信前に大々的な予告をし、けれども芳しくない集客力だった。
奇跡を起こす前では2000人集めればそれでよかったが、予告通り、彼が「奇跡」を起こしたあと、視聴者数は100万人をかき集めた。
それから数十年が経過した。
老齢となった奇術師は、野太くなった声で先ほどのことを宣言する。
彼の起こす「奇跡」とは、すなわち地震だった。
「奇跡」の通称は、南海トラフ、と呼んでいた。
南海トラフは彼の呼び声のみで発生するのだ――と、数多の予測を無き者とした。
彼の導きとともにいる、核シェルターに逃げ込んだ観客層は、退職金やボーナスなど莫大な金を彼に貢いでこの席を手に入れた。ありていに言えば富豪たちだった。それ以外のものどもは地上にいる。
カタカタ、とシェルター内が小さく揺れ、予告通りであることに大変喜んでいた。
私たちは選ばれし人間たちであり、やはり信仰は存在するのだ! と歓声を巻き起こした。
一方、奇術師は別のことを考えていた。
この奇跡は代償を伴う。一度目は自身の若さを犠牲にした。今回は違う。犠牲はちゃんと用意した。
代償は、目の前の者たちで足りるだろうか……。
奇跡の源の在り処、天を仰いだ。
ああ、主よ……。私のことを見守っていますか。
核シェルターの天井がどれだけ高かろうが、空は見えない。それで良いのだ。私の最期には、それがふさわしい。
天に見放されたように、奇術師は暗く笑った。
たそがれ時は色が黒に寄り、影絵になりゆく時間帯。
日が落ちりゃ地面が伸びたように物体の影が長くなり、影が影でなくなる。そのような感覚を時折覚えるようになった。
今年の前半、「デ・キリコ展」というのを上野の美術館でやっていて、僕は知識ゼロでその人の絵画を見てきた。
夕暮れ時をよく描くなあ、と思ったものである。
美術館にて、その人の説明文を斜め読みすると、夕暮れ時に天啓を受けて、このような不思議な絵を描くようになったんだと。
その時まで、夕暮れ時に対し、「綺麗な色彩」とか「一瞬の光景」などというように、良い印象を持っていたけれど、色合い的には闇夜に切り換わるわけなのだから、負の印象を持つのが感性的には正解といえる。
それは僕たちは生まれる前からもう、地球は自転するものだと当たり前のように知っているから、日没前のこの不気味な時間帯を不気味だと認識しないのだ。
日が没するという表現も、今考えてみると素敵だ。
没するとは、沈むではなくて一旦死ぬということだ。
だから昔の人は、一日のうちに太陽は生まれ、そして死んでを繰り返すことに対し「奇跡」だという風に自然信仰をするようになる。
繰り返すことが「奇跡」だと思ったわけです。
対し、僕を含む現代の人たちは、繰り返すことに対して飽きてきている。感謝の念を抱かずにいる。
そっぽを向いた目の隙に、本当は太陽は生まれ変わっているのかもしれない。
その光景を影は影絵の一員として表現しようとする。
それを当たり前と受け取るか、デ・キリコのように芸術的延長線と捉えるか。
あるいは、「ふと」と気づいたように、たそがれに呼び寄せられ、影絵の住人になるか。
僕は住人になる資格……たそがれ時に外にいない。
きっと明日も水を飲む。
最近、個人的に始めたものとして水を飲むことがあげられる。
540mlのペットボトル一本。
ラベルには「イロハス」と書かれているが、これはガワだけの話。中身は、自宅の浄水器の水を汲んできている。
半年前からお腹周りが気になって、なんとか痩せないとと思っていたら+1kg。
一応階段を使っているんだけどなあ、という気持ち。
気持ちだけでは痩せないことがわかった。
ネットで調べてみると、「水を飲め」みたいなものがあった。飲み込んだ水は血液に乗って身体中を巡っている。その基となる水分補給が、現代人には往々にして足らないという。
体重計算をすると、一日の飲み水は1リットル強と出た。
1リットルも飲めないよ〜。そうだ!
というのが、ことの経緯となる。
平日の朝、ペットボトルに水を入れてカバンに詰める。
すると、職場で毎日買っていた麦茶を買う必要がなくなった。一日の100円の節約。意外とバカにならない。
僕の舌は庶民的なので、ミネラルウォーターと浄水器の水の区別が付かない。
……というのは午前中の話で、午後になってからごくごくと飲んでいると、若干水道水っぽい味が舌に障る、気がする。気のせいかもしれない。
職場から帰る時、いつも考える。
残った水は捨ててもいいかなと。ミネラルウォーターなら考える案件。
でも、帰り道に買い食い、飲み食いをするクセがあるので、一応持っていってる。
喉は渇いてないから水を飲まない。
常識を振り返り、考え、歩く夜の道。
あれっ。
いつもの麦茶が水道水になっただけでは、何も変わらないのでは? むむむ……痩せるって難しい。
静寂に包まれた部屋で読書をしていた。
鬱蒼とした森の中。
ログハウス的小屋の中でのひと時だった。
主は人間ではない見た目をしている。周囲の山村のいうところによれば、魔女扱いされている。
たしかに人間の寿命以上は生存しているものの、人間の寿命の延長線の範疇にある。
というか、昨今の人間たちは生き急げとしすぎている。
睡眠を削るとは、寿命を削るのと同意味だ。
と、主はみゅにゃみゅにゃと寝言を言っている。
誰がどう見ても昼寝をしている、と思うかもしれない。
本の位置は寝転んだ顔の上にあり、主の顔を隠している。金色の紡糸の英字の筆記体。タイトルがそれの表紙を上にして、伏せられた状態にあった。
難しい本を選んでしまった、というのが寝ている主の意向である。
しかし、本格的に本を読む前からハンモックにて寝転んでおり、予想通りハンモックの虜となっていた。
ハンモックに隷属して少なくとも数時間は経つ。
そもそも読書をやろうという意識の量は、あまりにも儚かった。
部屋の雰囲気に人工的物体は特にない。
木の根が張り巡らされた壁面には、主愛蔵のコレクションが飾ってあった。書物が最も多い。厚さ薄さ関係なく、物語は一級品である。
そこへ、さああ、と音がやってきた。
「……んあ?」
主へ音に呼ばれて目をこすり、伏せていた本を落とす。
何ページ読んだのか分からない状態になって、パタンと本は閉じる。
寝付きの悪い主は、やはり目覚めも悪く、低血圧低血糖ときている。数十秒間、上体を起こした状態で、音を立てた者を窺った。落ちた本はそのままにした。
一人、二人、三人……
見知ったものではなさそうだと思うと、壁にかけられたひと振りを手に取る。
三日月がそのままの形、そのままの色の武器。
小柄な主の身長に対し、二倍はあるだろうか。
「誰だい、俺の縄張りに入ったのは」
そう呟いて、スキルを行使した。
瞬間移動。するともう、射程圏内。
敵の背後を取るのは簡単だ。軽々と鎌を振るう。
先ほど読んでいた本の冒頭部分を頭のなかでそらんじた。
さあ、狩りの時間の始まり始まり……。
別れ際に最後の道連れ。
若い男女は、ともに相手の首に手を回しながら絡み合う。そして、棒倒しのように湖に飛び込んだ。
平日を休んでの逃避行の果てだ、と男の方は思った。
最後の空は夕焼けの色を呈していて、その一部が湖の水に映り込んでいた。
引き寄せたほうは女からだった。
いつもそうだ、と男の方は思った。
意気地なし。最後まで意気地なし。
自分を悪罵しながら身体が沈んでいく。
女の青いロングスカートで、足先はまったく見えなかった。ザブン、と音を立て、湖の水に触れるや色と服が水の中に溶けていく。煮溶けた肉じゃがのように、液体に負ける固体。消える。
夕焼けの赤さと彼女の青さ。それは年齢も込みである。だからこんな無謀な結末となったのだ。
夕焼けの色は実は戦争末期であり、この国の滅亡寸前を示す色彩である。
だから、だから男の方は意気地なしなのだ。
男は国のために死ぬことすらもできぬ。
身体が軟弱であり、一方資産家の令嬢である彼女はロマンスを求めた。それ故の逃避行の決断者であった。
湖の深度が深まるごとに、彼女の姿を覆い隠すようだった。服は糸がほどけたようになり、彼女の本来の色がむき出しになる。
それを見ていると、意外と呼吸は苦しくない。
これから苦しくなるのだろう。
そう思えど、そう思えど。
どこか忘れている。
世界の一部が終わろうとしているというのに。
思考はとめどなく溢れている。
死を後悔しているのか。この決断を躊躇っていたのか。それだけは違うと理解できた。
何なのだろう。
もうこのまま湖の底に沈積して、時代に忘れられる化石燃料になってしまえばいいのに。
しかし、頭の方までは化石にならず、意識は、はっきりとしている。
ねぇ、と女の唇は水中で動く。
生きていた頃、吸い込んでいた濁った空気が、口から男の方へ。ぽこりと大きく発泡する。
泡が頬に当たり、視界が……
いつまで寝ているつもり……?
そう口が動いているのをみて、視界が覚醒する。
一気に浮上する感覚。
男の身体が軽くなり、湖底から見上げるようにすると、石のようになっていた意識から目覚めることができた。
長い間、病室のベッドで眠っていた男はついに、ベッドのそばで待ちわびた人を一目見ることができた。
あれは、夢だったのか……?
その顔を見ると、随分と待たせたようだった。
澄みわたるほどに空は青い。その色は平和。