鐘の音は密やかに、日常の通底に流れる。
それが一気に浮上して、ガラーンと鳴った。
昨日、日経平均株価が失墜してしまい、歴代最高レベルの大暴落となった。
SNSが新NISA民終了のお知らせなどといってトレンド入りしまくっている。
特に信用取引・レバレッジなどのFX取引の方々は、追証(おいしょう)と呼ばれる強制ロスカットが今週予想されているようで、
「人生に絶望した形として早朝に電車遅延か?」
「今日は人身事故に注意」
などといって警鐘を鳴らしている。
「あー、これは絶望の鐘の音が轟きましたなあ。年末の除夜の鐘の108倍の威力はありますぞ」
と他人事のように書こうかと思ったのだが、今日になって、すっかり盛り返してきた。警鐘を鳴らして成功だったか?
わりとV字回復といってもいいほどで、昨日のあれはなんだったのか、といった完全犯罪の具合である。
現場に死体以外何も残さず、犯罪者はそのまま留まって第一発見者の一団に潜り込み、素知らぬ顔。
そんな手際の良さだ。やっぱりSNSって大げさ。
これについて書くことがないので、別の鐘の音について書くことにする。
冒頭のように、比喩になってしまうが仕方がない。
早鐘を打つように、という風に、心臓という「いのちの鐘」について触れてみる。
僕が学生の時はまったく覚えてないのだが、今は「いのちの授業」なるものがあるらしい。
この授業、どことなく千家と裏千家みたいな感じで流派があるらしい。
心臓か、赤ちゃん……胎児か。
「いのちの授業」について検索してみると、こんなことを言っているPDFファイルが見つかる。引用↓
〜〜〜
子どもたちに、「命ってなんだと思う?」
と先生が問いかけると、どの子も必ず心臓に手を当てるそうです。
先生は、「それは違います」と優しく諭されて、次のように話されました。
「心臓は「いのち」ではありません。心臓は単なるポンプです。「いのち」は目に見えないものです。確かにあるものだけれど、でも、目には見えない。
では、命とは何か。
昨日も今日も見えないけれど、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、きみたちの持っている時間を使っているんだ。時間を使っていることが、きみが生きている証拠。つまり、命とは君たちが持っている、使っている『時間』なんだよ」
〜〜〜
子供にとって、あまり理解しづらい感じ。
なんか「ふーん」で終わってしまいそうな。
たしかに心臓=命そのものではない。
心臓手術で心臓を止めて、また動かして生還した場合、その人の命の行方はどこに行ったというのだろう。
その場合の説明ができないから、いのちは見えないものだから、時間という見えないもので説明した。
……というのは考えすぎか?
でも僕的には「いのち」って見えたほうがいいよなあ、って思ったりする。現代だと特にそう。
最近の学生たちは、
「もう消えてしまいたい」とSNSで声を上げ、共感しあい、慰め合っている。
どうしてそんなことをしているのかと言えば、鐘の音が聞こえなくなったからだという。
いのちの鐘の音。
救急車のサイレンがうるさくて眠れない街の人のように。
除夜の鐘がうるさくて夜眠れないクレーマーのように。
聞こえなくなったというわけだ。
「いのちとは、時間なんだ」
という、小さい頃に吹き込まれた大人のよくわからない説明からだと思うんだよね。
だから鐘の音は抽象度が高くなって、言語化もしやすくなった。文字起こしすれば、それで鐘の音を鳴らしあっているつもりになる。
実際は胸をさらけ出して(最近は服の上からになりつつあるけど)、聴診器で聞き取らないと聞けない代物なのに。
共感性の方を重要視しすぎて、価値が暴落してしまっている。
普段は大きい音で隠れて聴こえない鐘の音。
音は小さいから、時折耳を澄ます。
最も単調なデバイス。
つまらないことでも「本当につまらない」と断言することは、異常に簡単で難しい。
なんというか、未知の味のガムみたいなもの。
ひと目見ただけでは取るに足らない一粒。
一向に味がしない、つまんない状態にさせるには、数十分口の中で取り組まないといけない。
かといって、
「あー、噛んでてつまらなかった」
と、ぺっと吐き出して感想を述べるのは常設展示レベルにダサい。率直に言えないのは、天邪鬼めいている。
年齢によっても見方は異なると思う。
六面ダイスのサイコロを振る、一度。
低年齢なら、嫌というほど確率の問題で出くわすから、アタマの中は散らばったサイコロで数多である。
ようやく確率の問題から逃れられた年齢に依れば、サイコロの目によらず、それは一種の比喩へと転じ、多面的な見方をするように仕向けられる。
展開図という単元があった。
特にサイコロのみの展開図を複数種覚えさせられたのは、なんとなく伏線的な香りがする。
教科書に載せられたものの多くは、子どものときには効果を発しない。明らかに遅延的で視覚的な効果だ。
見方を変えるために、とりあえず目の前のものをこねこねするのがいいらしい。
立体を崩して、物体を崩して……、物質にする。
立体的から平面的に、物事を考える必要がある。
ああいう形を作るには、まず図面を描かねばならない。
立体とは、平面的図形の寄せ集めである。
それを見えるように、次元を一つ戻して二次元にし、考え直してから、三次元へ組み立てるように。
たかがサイコロ一つ、所詮運だ。
誰が振ったかなんて関係ない。
反省なんてさらに意味ない。
と落胆せず、そういった考え方のクセを見出して、新たに再構築することが肝要である。
そんな車輪の再開発めいたことをせず、単に「つまらない」と一蹴してもいいのか。
結局「つまらない」と言いたい人は、即断即決に憧れているのだと思う。つまり、あまり考えたくない人。
あるモノを即断即決して「つまらない」と即断即決するから、急速にそれをつまらなくさせている。
まあ、即断即決が一概に悪いとはいえないけど、大概即断即決する人は、即断即決に憧れている人。
即断即決でも、理由は要ると思う。
「どうしてそれにしたの?」
「なんとなく」
僕も靴選びを即断即決しては、よく後悔している。
足は冒険したくないって、駄々をこねている。
毎回同じメーカーの、同じサイズのものしか買わなくなってしまった。
変わらないって正直、とてもつまらない。
目が覚めるまで、僕は何をしていたのだろう。
「夢遊病」というものがある。
睡眠中起き出して、意識もなく歩き回り、そして目が覚める。
最初は大層な寝相アートを創り出したなあ、という自覚だった。着ていた服が投げっぱなしになって散乱していたし、紫色の毛布はずるすると部屋の外の廊下に飛び出していた。
家出を検討する真面目な中学生みたいな、精神は家出済みだが、身体は家にいるような、ためらい。
しかし、連続ドラマの最高視聴率を叩き出したものをやってしまったときは、ちょっとおかしいな、自分。
と改めて認識した。
同一人物でないと思った。
どういえばいいのだろう。
ひとつに統合されてないというか、身体と心が分離したかのようだった。
所詮身体は心を乗せる有機物の籠でしかなく、主体性のある何者かによって操縦されている。
順当に飛行していた旅客機が墜落した跡の、その残骸を見た。
ベッドの中で気を失うように眠ったはずが、家の外の道ばたで寝ていた。
あれ? どうして僕は……
起き上がって足を見ると靴を履いていない。
靴下も履いていない、裸足だ。
どのような歩きかたをしたのだろう、土踏まずにも灰色の小さな石が付いていた。
それらを払い除けて、アスファルトの路地を走り、戻る。
裸足で道を歩くと新鮮な感じだ。とても痛いのは、不健康だからか。
違う、道を作る材質の硬度のせいだ。
玄関扉まで戻ると、なんと鍵がかかっている。
ポケットをまさぐる。
チャリンと鍵の在処を示した。
ちゃんと僕は鍵をかけて出たっていうのか?
まさか!
大慌てで手を入れ、鍵を取り出し、本物であるという証明音が聞こえる。確信のもと、中に入った。
特に何事もなく夜を過ごした靴があって、部屋があって廊下があって、リビングは……と、リビングまで歩くと異変がある。
リビングの窓が全開になっていて、白いレースのカーテンが内側に迫っていた。
ふわりと、外の風で膨らませていた。
こんなふうに、見えない何かで僕は膨らんでいる。
膨らんで、そして縮まって、また大きく膨らむ。
このカーテンの柔軟さに、僕は助けられている。
病室に六人の被験者たちが集められた。
B製薬会社の投薬実験という、いわゆる治験の類で、三日で終了するという触れ込みだった。
正規の募集ではなく、どうやって応募したのかは……、そこから先は守秘義務で言えない。
被験者に与えられたルールはとても単純で、三日間病室からでないこと。毎日四回と、毎食と就寝時に新薬を服薬すること、だけである。
報酬は振り込みで、三日で十万円。
一日目、二日目、そして最終日も何事もなく終わって解散となった。
これだけで十万円とか、と被験者たちはみな嬉しい思いをしたはずだ。
しかし、うっすらと違和感めいたものがあった。
まず、自分を含む被験者のどれを見渡しても子供たちだったこと。三歳、六歳、九歳、十二歳、十五歳と続く。自分は十二歳だった。
きっちり三の倍数の年齢で構成されているというのが、データをとってやるぞというものがうかがい知れた。
一番下の年齢は赤ん坊だった。
〇歳を含めて三の倍数で揃えた、ということだろう。
……と、その時はその場で納得してしまったが、なんだか気味が悪い。
六人のうち一人が赤ん坊である、そのことがおかしいと思うのが自然だ。
それに、治験の三日間、看護師などが来なかったのである。
だから、おしめを変えるとかは、自分たちで代わりにやった。
もちろん新薬も飲ませた。
赤ん坊だからか、自分たちのような白い錠剤ではなく、白いトローチだから、意外と処置が容易かった。
赤ん坊もそうだが、治験中に不気味なことを経験したのだ。
あれは一日目か二日目か、どちらかわからないが、深夜に息苦しさを覚えた。
なにやら、心臓を撫でられた感じだった。
ぞっとするような冷たい手の感触で、直接心臓を握り触られた。
服ごとかきむしるように、その手をどけようとするが、残念ながらそんなことはできない。
服や皮膚を貫通して、直接触られている。
やがて地獄の夢のなかを自覚するように明晰になってきて、夜中に目覚めてしまった。
昔話のように、枕元に誰かが立っている!ということはなかった。なにもない。
赤ん坊も眠る、静かな深夜だった。
自分以外だれもが寝静まっている。
あれはいったい何だったのだろう?
幽霊……、と一言で片づけてもよかったのだが、気味が悪い治験だった。
明日、もし晴れたら、
などと、天気を理由にしないで、何かしらのことをやる。
雲のような、ふわっとしたものだけど、それでも僕はとても満足している。
ネットを見ると不安にさせてくるようなものばかり。
話は変わるけど、サイバー攻撃でダウンした某ニコニコ動画なんだけど、再構築された契機にUIがYouTubeみたいに刷新されるらしいんだよね。
これ、僕もさっき知ったばかりなんだけど。
こうしてみると、サイバー攻撃されてよかったかもしれないね。ネットニュースだから信憑性は著しく悪いけど。
これも話は変わるけど、株価が暴落したってSNSは騒いでる。
僕も見てみたんだけどね。
どーん、なんだよ。
僕もグラフ見たけど、どーん、ってなってたよ。
新NISA民は全滅だろうって、書いてあったのだよ。
僕、積立NISA始めたばっかりで、とりあえず様子見で月5000円積立に設定したんだけど。
マイナス600円程度のかすり傷で済んだよ。
月5000とか、意味ねーじゃんとか。
ネットでそんな事が書いてあったり、身内に言われたりしたけど、うるさいのだ。
僕はミーハーなの。
いちいちうるさいのだ。
僕は、このどーんを、近年稀に見る何とかって、ボジョレーのキャッチコピーを考えるときぐらいの気分で命名したいの。
そうだ。
明日、もし晴れだったら、冷房の効いたカフェスペースの窓際席で、青い空でも見てみようじゃないか。
例えばあそこにどーん、と浮かんでいる雲。
動いてないようで動いているな。
僕には見えているぞ。
ふふふ。
そんな気分で。
目の前の景色を、どーん、のひとことで済ましたい毎日なのだ。