「街の明かり」――普遍的な語句であるので、例外は考慮に入れないことにしたい。
例えば街の地下……地下鉄や地下鉄駅は、街の明かりに含まれるだろうか?
例えば昼の太陽……春や夏や秋や、強弱関係なく降り注ぐ自然の陽射しは、街の明かりに含まれるだろうか?
基本的には含まれない、ということを考慮すると、街の明かりは夜間で地上に限定される。
高層ビルの聳える都会は「街」と言えるだろうか。
過労死ラインを抱える人々の、眠ることのない夜を抱える建物自体、穏やかな味わいを持つ「街の明かり」に該当するとは思えない。
信号機の光やネオン、電車の揺れ動くもの、カンカンと鳴り響く踏切、電柱の光、街路樹を照らす光。
これらは街の明かりを構成するかもしれないが脇役でしかなく、明かりの主役にはなり得ない。
音という雑音が含まれ、テーマにそぐわない。
駅前やバスロータリー、観光地特有のイルミネーションなども、季節ごとに応じて色を魅せているが常設的な明かりではない。特にコンビニは24時間営業、人工物だ。
そうなると、街の明かりに該当するのは郊外である。
街の明かりとはすなわち、室内の光が漏れ出たものの集合体に思える。
マンション、一軒家、賃貸物件、昭和特有の団地、営業時間中の店内照明……居酒屋。
内包されるのは人の住処の象徴であり結晶である。
さて、室内光を考えるにあたり、特に重要なのはカーテンの有無だろう。次点で窓の種類だ。
中学校で用いられる顕微鏡には、「しぼり」と呼ばれるものがあった。
反射鏡で吸光・反射し、その量をしぼりを使って適切に調節する。光が強すぎると観察すべきプレパラートが見えなくなる。この機能がそのままカーテンに由来する。
元々電気というのは外で――発電所で作られ、高電圧で送電されて室内で消費される。ある種反射されて供給されたということである。
それがカーテンという「しぼり」を通して光が絞られ、外に漏れ出て街の明かりとなる。
次点で窓の種類だと先に述べた。
これは曇りガラスなど透過する窓の種類によって明かりに変化をもたらすからである。これも「しぼり」と呼んでもよいだろう。
こうやって漏れ出た「街の明かり」は、しかし、第三者からの目線により価値を失ってしまう。
具象から抽象へのマクロ的変貌。
小さな価値の集合は、大きな一つの新たな価値にラベリングされる。
「しぼり」の存在は無視される。
例えば「百万ドルの夜景」といった具合に大半は無視される。
七夕なんだし、たまには宇宙について考えてやるかといった感じで「天の川」について調べてみた。
天の川って川のように見えるというだけで川じゃないんだね。これ銀河なんだよね。
天の川銀河という、太陽系も含まれている事実。
地球も天の川銀河に属しており、星空には天の川銀河が見える。これはどういうことなのだろう。
自分で自分を見る……。どういうことだ。哲学か?
お得意の宇宙系YouTubeを漁ってみたのだが、これといって説明する気がないのだろうか。
「宇宙って、こんなにも広いんだぞ……!」
というワイドな動画が多めである。
ミルキーウェイ、ウェイウェイと言っている。
わからん!
宇宙人の人件費で動いてんのかお前は、みたいな調子だ。「さてはお前、地球人じゃないな?」という難解さである。
そんな中でプラネタリウムの人がナレーションしている動画を探し抜いた。
それを聞くに、天の川銀河とは渦巻き状であり、蚊取り線香みたいなものだと述べていた。ちょうど蚊取り線香を真横から見ているときと同じなのだという。
つまり、蚊取り線香になってみないと天の川の構造がわからないようだ。
五回、渦を巻く蚊取り線香があったとしよう。
どこにあるかは知らんけど、太陽系は中心から三周目の円。そこから蚊取り線香の内側を見たり、蚊取り線香の外側を見たりしているという。
そうすると、伸ばした線の交点(蚊取り線香の層)となる数が変わる感じとなる。これが天の川の星の量に由来する。
ちなみに天の川は夏のイメージが強いが、実は冬でも見れるという。それを早く言ってくれないか。
どうやら七夕を特別にさせているのは天の川ではなく、織姫と彦星という銀河系最強のニートたちだったようだ。
大学4年生の春。
キャンパスにて花見をやったことがあります。
理科系の研究室に在籍しておりまして、あの頃は酒さえあれば何でもよろしい、という、のんだくれ予備軍みたいな単純な生き物でした。
キャンパス敷地内には八重桜が一樹だけ植わっており、その下で宴会風味なことをしたのです。
夜桜だったと思います。突発だったと思います。
グループラインで「今夜花見するんだけど」と女性の誰かが言い、いいねいいねと男ののんだくれたちが賛同するのです。僕もその中に含まれます。
突発から数時間しかありませんでしたが、あの頃の行動力はばかみたいなものでした。
家から思い思いのお酒を持ち寄り、その八重桜の下で夜桜花見をしたのです。
参加者は僕を含めて五〜六人。
ワイン、梅酒、果実酒、缶チューハイ、もちろんビールも。
何を敷いたのか知りませんがたぶんそのままだったと思います。そのままズボンに土をつけて座り、紙コップを配って、酒盛りを始めまして。
何を話したのかは記憶の彼方に消し飛んでいますけれども、深夜11時にお開きとなったことだけは存じ上げております。お酒が切れたのです。
しかし、キャンパスの夜というのは不親切でしてね。
折角の八重桜は観光地のようにライトアップしておらず、キャンパス内は真っ暗闇の中なのです。
一応時代は平成後期でしたので、スマホのライトで照らすんですけれども、無いよりましみたいなもので全然頼りになりません。
ただ言い出しっぺの女子生徒が立派な懐中電灯を用意しておりまして、それで首の皮一枚繋がったといいましょうか、一応花見の体裁はあったと言いましょうか。
上向きに置かれた懐中電灯って意外と頼りになるのです。あいにく夜空まで届きませんが、光の筋が見えるのです。八重桜の枝に光が引っかかって。
それが儚げで。でも、その光景をのんだくれ全員は見ておりません。花よりお酒、単純な生き物。お粗末。
そうか、もうすぐ七夕だからか、と合点した。
日本ではもう星空なんていうもの、見れない代物になってしまっている。
田舎では見えるって?
残念、もう見れないよ、都会人。
君と同様、スマホの光にやられて視力が悪くなってるからね
皮肉めいたお題だなあと、僕はびっくりしたよ。
一体全体誰がこんな小汚い夜の空を見上げるんだい?
小説のネタにするって、ロマンチストのような物好きしか書かないんじゃない?
星空じゃなくて夜空のほうが現代人にはぴったりだ。
大抵の人は子供も問わずストレートネックだからね。
見上げなれてないんだ。見下しなれてるんだ、首は。
広大な空より狭く堅苦しいスマホ画面に夢中なんだ。
首の長いキリンだって、びっくりするよ。
どうしてそう目をおとすんだ?――とね。
空に星は似合わない。
雲に隠れた月――朧月夜のほうが、しっくりくるんだ。見上げたくなるんだ。肉眼で見れるから。楽だから。
星だと望遠鏡を持ってこないと見れないからね。
ああ、スマホが望遠鏡になってくれれば一件落着なんだけど。あちらの方から近づいてきてくれればこちらとしてもありがたいんだけど。
神様だけが知っている、お気に入りの場所がある。
砂浜と海の水がせめぎ合う、波打ち際。
左には砂浜、右には夕景の海。
その境を歩いていって、足跡をつけたり、波の音を聞いたりしている。
私は影。伸びる人影。
左から右にかけて半島が伸びているのだろう、海に沈むように半島の先端が見えるが、一向に近づく気配がない。
足跡をつけた2秒後に、波がざざあと音を立てて、白いものか覆いかぶさり消えていく。
これを日が沈むまで続けていく。
波が繰るたびに感じる、足首の水の冷たさ。
その楽しみ――刹那の楽しみが、砂粒の数くらい心弾け、なお心地よい。