22時17分

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「街の明かり」――普遍的な語句であるので、例外は考慮に入れないことにしたい。

例えば街の地下……地下鉄や地下鉄駅は、街の明かりに含まれるだろうか?
例えば昼の太陽……春や夏や秋や、強弱関係なく降り注ぐ自然の陽射しは、街の明かりに含まれるだろうか?
基本的には含まれない、ということを考慮すると、街の明かりは夜間で地上に限定される。

高層ビルの聳える都会は「街」と言えるだろうか。
過労死ラインを抱える人々の、眠ることのない夜を抱える建物自体、穏やかな味わいを持つ「街の明かり」に該当するとは思えない。

信号機の光やネオン、電車の揺れ動くもの、カンカンと鳴り響く踏切、電柱の光、街路樹を照らす光。
これらは街の明かりを構成するかもしれないが脇役でしかなく、明かりの主役にはなり得ない。
音という雑音が含まれ、テーマにそぐわない。

駅前やバスロータリー、観光地特有のイルミネーションなども、季節ごとに応じて色を魅せているが常設的な明かりではない。特にコンビニは24時間営業、人工物だ。

そうなると、街の明かりに該当するのは郊外である。
街の明かりとはすなわち、室内の光が漏れ出たものの集合体に思える。
マンション、一軒家、賃貸物件、昭和特有の団地、営業時間中の店内照明……居酒屋。
内包されるのは人の住処の象徴であり結晶である。

さて、室内光を考えるにあたり、特に重要なのはカーテンの有無だろう。次点で窓の種類だ。
中学校で用いられる顕微鏡には、「しぼり」と呼ばれるものがあった。
反射鏡で吸光・反射し、その量をしぼりを使って適切に調節する。光が強すぎると観察すべきプレパラートが見えなくなる。この機能がそのままカーテンに由来する。

元々電気というのは外で――発電所で作られ、高電圧で送電されて室内で消費される。ある種反射されて供給されたということである。
それがカーテンという「しぼり」を通して光が絞られ、外に漏れ出て街の明かりとなる。

次点で窓の種類だと先に述べた。
これは曇りガラスなど透過する窓の種類によって明かりに変化をもたらすからである。これも「しぼり」と呼んでもよいだろう。
こうやって漏れ出た「街の明かり」は、しかし、第三者からの目線により価値を失ってしまう。
具象から抽象へのマクロ的変貌。
小さな価値の集合は、大きな一つの新たな価値にラベリングされる。

「しぼり」の存在は無視される。
例えば「百万ドルの夜景」といった具合に大半は無視される。

7/8/2024, 2:13:11 PM