会うは別れの始まり、上手いこと言ったことわざがあるもんだ。
自分に覆い被さる男の背にそっと手を回す。
これで覚悟を決めた。今までの自分に別れを告げることにした。
きっとこの先にまた、新たな出逢いがあるに違いない。
目の奥がバチバチッと弾けるような衝撃 内臓が全て押し潰されるような感覚 襲いかかる今まで感じたことの無い激しい痛み
今、確かに何かを失ったのだ。お返しと言ってはなんだがその背中に強く深く爪を立てる。
さようなら今までの自分
はじめまして新しい自分
気付くと一筋の涙が頬を伝い落ちる。
悲しいのか嬉しいのか、まだ男にはそれが分からないでいる。
この世の中は「世界でひとつだけ」で満たされている。
少なくともA子の生きている世ではそうなのだ。
一つとして同じ物が無いと常々思う。
いくら量産されたスーツを身に付け、他の人とほぼほぼ変わらぬ化粧をして面接に臨み、他人と同じような志望動機を説明したとしても、である。
「まーたお祈りメールだよ」
もう何度落とされたか分からない不採用通知を削除して独りごちるA子。
この広い広い世の中には「世界でひとつだけ」の私をきっと必要としてくれている場所がある。
頬をパンパンと叩き、再度気合いを入れ直す。
――よし、やるぞ。
彼女はまだ見ぬ世界を拡げるべく、その扉を慎重にノックした。
息を切らせてアスファルトを蹴り上げるA子。
祖父の容態が急変したと病院から連絡を受けたのだ。
待って、お願い、いかないで。
走れば走るほど心臓は早鐘を打ち、それと同時に益々焦る気持ち。
大きくて真四角の白い建物が、ぽっかりと口を開けて彼女を待っていた。
そこでほんの少しだけ立ち止まり、ゆっくりと呼吸を整える。
よし、行こう。
早足で病室まで一気に駆け抜ける。
今は階段の方が少しでも早く行けるような気がして、エレベーターの到着を待つ短い時間ですら惜しかった。
「おじいちゃん……!」
扉を開き、祖父の名を叫ぶ。
果たしてそこに居たのは看護師と医師、そして脈拍を伝える無機質なモニター。
弱々しく、それでも不規則に鼓動を打っている。
鼻の奥がツンと痛くなり、堪えていた涙が一気に溢れ出す。
生きている。私が来るのをずっと待っててくれていたんだ。
しわくちゃで大きなその手をギュッと握り締める。
「……ありがとう」
ピー……と呼吸の終わりを告げる音がした。
泥濘にできた水たまり
ポツポツ しとしと ざあざあざあ
踊り子のようにステップを踏むのは果たして雨
広がる波紋はすぐにできてすぐに消えて
ほわんほわん ぴちょんぴちょん つるんつるん
ずぅっと踊っていてほしい ずぅっと見ていてあげるから
命の始まりの時を告げるのは何も赤ん坊の泣き声ばかりとは限らない。
俺の大事な養い子は土から這い出てきたのだ。子の人生の始まりは土からぼこっと出てくることだった。
その日は朝から酷い雷雨で、こんな時に産まれてくる赤ん坊に果たして祝福はあるのかとすら思う。
実際に、忌み嫌われる墓場から出てきた時はやれ化け物の子だと思って一度は殺してしまおうとした。
そんな時に耳慣れたカランコロンと下駄の音、この子は大切な相棒から託されたのだ。自分が守らなければならない。己の直感がそう、訴えた。
雷の下でぎゅっと我が子を抱き締めた時、命を預かる重み、覚悟、責任を一手に背負い、これから全く新しい人生の始まりを迎えることになる。