逢うは別れの始まりって知ってる?
長い髪を風になびかせて、あの時彼女は僕にそう言った。
白いワンピース 大きな鍔の帽子 向日葵がふんわり揺れていたっけ
「おじいさん、ご飯ですよ」
「おお、まだじゃったかの?」
食事を準備してくれて、隣で微笑む白髪の老女。全然知らない人なのに、僕の心が穏やかに凪いでいるのは何故だろう。
目の前の箸らしき物を見るけれど、これは一体どう使えばいいのか。少し逡巡していると、老婆がスプーンをそっと差し出してくれた。
嗚呼、ありがたい。
ぎゅっとそれを握りしめ、茶碗に盛られたばかりの白米にザクッと差し込んだ。
窓から外を見てみると青々とした葉っぱ、山が緑に萌えている。夏の風が優しく吹いた。
嗚呼、今年こそあの子に会いたい
私は雨が好きだ。
外に出た途端のムワッと蒸れた匂い、雨粒が葉に落つる音、どことなく静寂、そのどれもが私をたまらなく、胸をきゅるんとさせてくれる。
そう、例えば
君との相合傘 不思議な距離感 二人だけの世界 どうして何も喋らないの
嗚呼、この時間がずっと続けばいいなあなんて
そんなありきたりなことをただただ傘の中で考える
君も同じ気持ちだといいなあ
この空模様みたいに何もかもが曖昧になってどろり溶け合って
いつか雨となってすべてが流れてしまえばいい
全てを見られている、とA子は思った。
いつもは口紅を塗り、ファンデーションをはたき、アイラインを引いて、自分がそれを見ている側なのに。
見られている、それは一種の興奮材料にもなり得る。
大好きな彼に背中を預け、ほらよく見てご覧とばかりに映し出された姿に、女にされている己の身体に、A子はうっとりと目を閉じた。
くだらないプライド、ひねくれた性格、やめとけと言われる人付き合い
案外形あるものの方が思いきってお別れを切り出せるのかもしれない。
目に見えないけれど無い方がいい物って案外思ったより多くて、そいつを捨てるにはきっと物を捨てる以上に勇気と根性と気合とエトセトラが必要で。
私は断捨離という名の自分との戦いを、日々繰り広げているのであります。
クッキーを一口つまむ。それはさっくりとした食感で、ほろっと甘みを残して口内にすーっと溶けていく。
ピーチフレーバーの紅茶を啜ると、あっという間にほんのり柔らかな桃の香りで満たされていった。
「形あるものに縋りたくないの」
まるで紅茶に上書きされたクッキーのようにそれは必ず消えていく運命だから、と女は続けた。
再び茶菓子をつまみ、ティーカップに口を付ける彼女。
僕は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がしてそっと目を逸らす。顔全体が茹で蛸のように真っ赤になる。心臓がとくんとくん、音を立てて暴れる。
「……でもね、嬉しかったわ」
こんな私に愛を囁いてくれる人がいるってこと。
貴方はいずれ上書きされていくかもしれないけれど、そこにあった愛だけはこれからも消えずに残るから。
嗚呼、勇気を出して良かったんだ。
開け放たれた窓から射し込む木漏れ日、鳥たちの囀る声、そのどれもが僕を、僕たちをあたたかく祝福してくれている。
彼女にとっての最初のクッキーに選ばれたこと、優越感にも似た心持ちで温くなった紅茶を一気に流し込んだ。