きっとばれないさ、こんなに真っ暗だもの。
真夏の夜、そう言う君は光る月も星も背負っていない。
君の向こうには、目を凝らせば辛うじてあるといえるような、頼りない屑のような星々が散らばった暗闇と、それとの境界がみえない、静かに広がるインクのような海だけがあった。
街灯が、背後からじーーーーーっと、寿命が近い蝉のような音を放つ。安っぽい白い光が君の姿を不自然に照らした。
はやくいこう、もういくからね
何も言わない私を置いて、君は夜の海へ消えていく。
追いかけようとして、昼間は熱かった砂に足を出す。
いくら足を出しても全く海に近づけない。ぬるい砂漠に足をすくわれて、
深く息を吸い込んで、目をひらいた。
湿気を吸い込んだ髪に汗まみれの体は、昨晩自分がシャワーを浴びてしっかり髪を乾かして寝たのか疑ってしまうほどの不快さだった。
何度か寝返りを打ってこちらが現実であることをじんわりと飲み込む。
目を刺すほど眩しい白光の下が似合う君が、あんな風になる訳が無い。なぜ夢だと気づかなかったのか。
ふくらはぎに痒みを覚え、この暑さでも蚊が生きていることに苛立つ。今年はまだ刺されていなかったのに。
痒みを紛らわすために起き上がってふくらはぎを叩く。
めいっぱい鳴く蝉の声で、珍しく窓をあけて寝ていたことに気づく。
弱々しい潮風を感じていると、君から「今夜海に行かないか」と連絡がきて、思わずぎょっとして返信できずに固まっていると「花火の許可もらってきた!」と続いて連絡がくる。
また思わず力が抜けて、私は笑みを零しながらそのまま君に電話をかけた。
【夜の海】
父は、毎晩私たちが寝静まった夜中に帰ってくる。そしてまだ外が少し暗い朝、家を静かに出ていく。会えるのはいつもより目が早く覚めたときだった。
急いで寝間着のまま階段を下りて、革靴を履こうとしている父より先に杖のように長い靴べらを取って差し出す。おお、おはようと振り向いた父を見送ったあと、すぐに鍵をかけることはせずに、外の門の先まで出てみる。駅に向かって歩いている父は、こちらに気づいたのか、曲がり角で振り返って大きく手を振ってきた。こちらも手を大きく振り返していると、今度は玄関の方向に向かって腕を横に振る。はやく家の中に戻れということだろう。私が家にひっこむまで父はこちらを向いたままだった。いったん、むこうから姿が見えなくなるところまで引き返して、再び歩き出す父を今度は本当に見送った。
父と長く一緒にいられたのは、五歳の夏休みだった。幼稚園に迎えに来た母が、自転車の前に妹、後ろに私を乗せて帰るとき、いつも私にいじわるをしてくる男の子が「まだお母さんの後ろに乗っているんだ」と馬鹿にしてきたことがはじまりだった。新品でピカピカの青いヘルメットと、同じような青色に白い雷のような模様が入った自転車が頭からはなれなくて、夜ご飯を食べているときもむくれていた。
そこで夏休みは午前中に父と自転車の特訓をすることになったのだった。
自転車に乗るのは思ったより怖くなくて、ペダルを踏みこんでスピードを上げればぐんぐん進んでいく。まだうしろもっててねと声をかけてみる。おう、と返ってきた声は小さくなっていて、もしや後ろの父は自転車を支える手を放していて、私はもう一人で乗れていたのかとブレーキをかけて振り返ると、汗だくで短い息を繰り返す父がすぐそこにいた。今まで本当に手を離さないでついてきていたらしい。
夏の終わりまで、なかなか手を離さない父に、もう離していいよと何度か言いながら自転車を漕ぎ続けていた。
幼稚園が再開した。自転車で母と同じスピードにはついていけないから、いつもより早く家を出る。坂を下るとき、少し冷たくなった風が前髪を吹き上げる。はやく着いて、この自転車をあの子より先に並べたい。
【自転車に乗って】
心の健康を損なわないために逃げたことがたくさんある。しかし、逃げた過去をもっている後ろめたさは消えずにつもっていくし、その過去を思い出さないように会わないようにしている人もいる。
これは心の健康を少しずつ削って完全に無くならないようにしているだけなのかもしれない。
【心の健康】
よく鼻歌を歌っている人だった。
機嫌の良し悪しに関係なく、なにかしながらその軽やかな音楽を奏でていた。
音楽には疎いから何を歌っているのかわからなかった。何の歌か聞いたこともあったけど、なんでもないやつ、としか答えるばかりだったから自作の歌だったのかもしれない。
あの頃、初めはあの人の音を少し煩わしく思っていた。聞こえなくなった今、私一人の空間は換気扇を回す音だとか、リモコンを置いた音だとかが、嫌に大きく耳に入ってくる。
もう私しかいないのだから、私が歌うしかないのに、君が奏でる音楽を綺麗に思い出せない。毎日のようにきいていたのに。
私も、なんでもないやつ、とやらで音を出してみるしかないのか。
静かな部屋で一人吐き出してみた鼻歌は、歌うとか奏でるとかいえるようなものじゃない。息が続かなくて不格好で、音の大きさ長さ高さもちぐはぐで好き勝手だ。煩わしい。
やめると、また生活音が私のなかで大きくなる。それを消すためにまたなんでもいいから歌ってみる。歌って、歌って、歌って。君の奏でる音楽がないこの部屋が日常になるまで。
【君が奏でる音楽】
祖母がくれた麦わら帽子をみて、さてこれをどうしようかと、少し困って考えにふける。
祖母の家に毎年の夏休みに帰省する度に、彼女は若いときに使っていたというアクセサリーなどをくれる。物持ちが良い祖母の物はどれも綺麗で大切にされていたことがみてとれる。
というわけで、この暑いのに帽子も日傘もなしで、これ被って帰んなさい。と頂いた今年のお土産がこの麦わら帽子である。
頭がちくちくしそうだとか、最近の同年代の子たちはキャップやバケットハットを被っていることが多いとか、鞄に潰していれるわけにもいかないから荷物になりそうだとか、少し遠慮したい気持ちを巡らせつつも、祖母の気持ちを無下にもできず、つばの広いそれを深く被って駅に向かった。
少し前に流行ったカンカン帽のような可愛さはないが、昔ながらの広いつばの麦わら帽子は、顔に影を落として、意外と快適ではあった。
駅のホームにくれば、風が吹き抜けて火照った身体を少し冷ました。線路に落とさないように頭の後ろを手でおさえる。
ざらりとした手触りにあれ、と頭を撫で回す。このあたりには祖母が自分で巻きつけたであろう、つるりとした白いリボンがあったはずだ。
「あのぅ、もしかしてこれ落としましたか」
振り向くと、白いリボンをもつ彼はいきなり気が抜けたように「ええ?! なんだお前か」と笑顔になる。
偶然にもこんな場所で会えたことにまごついて、「うん」としか返せない。
「リボンとれたの後ろから見えてさー」と手を差し出す彼に言いそびれたお礼を言ってリボンを受け取り、畳んでカバンのポッケにしまう。
「つけねえの」
「またとれたら困るから」
ほーん、と彼が返してきたとき、プルルル、と電車がくる合図が鳴る。乗るときは外そうと帽子を脱ぐと「お、」と言い出した彼は「さっき顔見えなくてちょっと緊張した」と続ける。
「やっぱ顔見えたほうがいいなって思ったけど、うん、こっち向いたときにしか見えないってのもいいな!」
頭も守れるし! と謎の褒め言葉も付け足したあと、目の前の電車に気づいた彼がこれ? と指したのに頷く。
じゃあまた9月な、と別れる前にもう一度、リボン、ありがとうとお礼を言って電車に飛び乗る。
ボックス席の隅に座って、外よりいくらか涼しい車内で私は両手でつばを引っ張るように、また麦わら帽子を深々と被り直した。
【麦わら帽子】