『君の名前を呼んだ日』
「てかさ、なんで苗字呼びなの?みんな俺のこと下の名前で呼んでるのに」
不意をつかれた問いに首を傾げる。下の名前で呼んだら馴れ馴れしいじゃん。そんな言葉を投げると、
「逆に苗字呼びされると距離感じて嫌だから名前で呼んで」
なんて。何とも思ってないような顔をして言ってる。私は嘲笑を含めて彼の名前を呼んだ。いつもより嬉しそうな顔をしている彼を見て、私もまた、嬉しくなってしまっているのはここだけの秘密。
『昨日と違う私』
履きなれないスカート。
イヤリングで耳が痛い。
いつもより時間のかかるメイク。
鏡の前で変な顔して笑ってみる。
こんなにも昨日と違うのはあなたに会えるからだ、ということは、まだ秘密にしておきたい。
『まって』
「今日はありがとね、また今度」
あなたはそう笑って手を振っている。
「まって」
私の声は弱々しい。けれど、あなたにはちゃんと届いていた。
「なあに、どうしたの」
「……また遊び誘ってもいい?」
「え?むしろお願いしますって感じなんだけど」
「ほんと?ありがと」
「…まって、やっぱ次は俺から誘いたい」
「……うん、まってる」
私はずっとあなたを待とう。きっと来ないであろう誘いだとしても。
『酸素』
慣れない環境で無理しているせいで、何もしなくても涙が出る。なんでこんなことしてるんだろう、と自暴自棄になる。いつもはこのあたりで止まるんだけど、今日は違った。息が吸えないくらいに泣いて、意識が朦朧としていた。いっそこのまま。そう思えば気が楽になるくらい、私はずっと泣いていた。
そのとき、スマホの着信音が聞こえてきた。恐る恐る手を伸ばす。そこにある名前はあなただった。思わず電話に出る。
「あー、また泣いてる」
向こうの呆れたような笑いが、すごく暖かかった。
「息吸えてないでしょ。深呼吸して、落ち着いてね。今からそっちに行くから、ちゃんと呼吸してるんだよ、どれだけ泣いてもいいから、ね」
私はあなたに「馬鹿」と言ってしまった。だって、あなたという酸素がまだここにないんだもの。
『記憶の海』
砂浜に波が寄ってくる。そして静かに引いていく。海と空の境界線は、はっきりしているようで曖昧だ。それくらいに空が青い。私はぼんやりと今までのことを思い出す。
今までこの海で過ごした思い出、記憶。それらは、まるで存在していないと思ってしまうほどに鮮やかだった。
記憶はまさに海だ。けれども、海のようにもっと気軽に、当たり前のように触れられるものであってほしい。そうでないと、あなたと過ごした日々ですらも妄想だと勘違いしてしまう。