『さよならを言う前に』
ありがとう、そして、さよなら。
もう既に手垢のついた別れの挨拶だ。もう二度と会えない、もう生きて戻ってこない、そんな意味を含めたような言い方だ。そう決めつけてしまっているような。でも、人はそういう状況に陥った時、別れの時に伝えたいのは『感謝』というのは、とても素敵だ。それが皮肉だったとしても、その口から「ありがとう」が出てくる私たちの世は、ちょっと温かく感じる。
人はどんな状況に置かれていても、別れの前には大切な人との思い出を振り返る。それはもちろん、離婚や友との別れも同じだと思う。人だけでなく、例えば職場や部活。その空間に身を置いていた自分と、そこで出会った仲間たちと、笑いあった日々を思い出す。本当は、その思い出を語りたい。あなたと語りたい。あの時はああだった、こうだったけれどこうだった、と語りあいたかった。それでも、あなたとそれを語るのは、私にはできなかった。その思い出を話してしまえば、空気に出た途端に酸化してしまって使い物にならなくなりそうだから。つまりは、あなたと語りたい思い出をあえて私の中に残しておくことで、私はあなたと生きていた、とより強く感じられる、ということだ。
思い出を語れないなら、あなたに何を伝えればいい?__あなたと生きた日々の明るさを見ると、感謝を伝えずにはいられない。あなたと会う前の私は、どうも曇った顔で独り座っていたけれど、あなたと出会ってからは、屈託のない顔であなたの隣を歩くようになっていた。あなたが私の隣に立ってもいいと言ってくれたから、私は相好を崩すことができた。その瞬間の心の晴れ晴れさよ。あなたに感謝したいと、無意識にも思ってしまう。別れを言うような間柄の人と別れるだなんて、「さよなら」だけでは足りないだろう。
さよならを言う前に伝えたいこと、それは感謝__人の思いを乗せて伝える、きっと世界でいちばん重い別れの言葉。垢はついても、それ以上に、あなたに伝えたい思いがないのだから、垢など綺麗にしてしまって、そしてあなたに伝える。だからいつまでも、それ以上の言葉なんて存在しないのだ。
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小論対策中ですがここで出てくるテーマが詩的すぎて随想っぽくなっちゃうのが辛い……。皆さんの作品を読んでいると詩すぎて自分もめっちゃ詩っぽいものを書きたくなってしまったので、気が向いた時に限り?そういうの書きます!
またねと言って。
その背中をもう一度見せて。
私の隣で笑っていて。
そばにいて。
だから、ありがとうなんて言わないで。
次の言葉がわかっちゃうから。
『空模様』
空はいつも、違う姿を私たちに見せる。同じ空は、もう二度と見られない。その下で生きている私たちもまた、二度と同じ日を繰り返すことはできない。なんだか儚くて素敵だ。
「もう一度、あの日と同じ空を見せて」と頼んでも、空は聞いてはくれない。「だって、もう覚えてないんですもの」と言いたげに、あの日は筆で描いたような雲だったのに、今日は鱗のような雲を見せる。「違うのよ、そうじゃないの」と言ってみても、「覚えていないのよ」と態度で示してくるだけだ。少し寂しいけれど、それもまた、素敵だと思う。思い出の傍に、空模様がある。
空模様がどう変化しようと、私たちに為す術はない。ただ、空の気分に任せて、日向ぼっこをしたり、傘をさしたり、上を向いて口を開けてみたり。私たちの生活は、空の下にある。空があるから、私たちがいる。
空がなかったら、私たちがこんな豊かな気持ちを持つことを許されていただろうか。空模様を見て、今日は太陽の日差しが柔らかくていい天気だと、今日は綿あめみたいな雲が多いと、真っ黒な雲が雨をザーザー降らせていると、そう感じる一日に、私は意味があると思う。でもそれが、どんな意味なのかはわからない。ただ、何だかこう、「ああ、私いま、生きている!」って思わせてくれるような気がするから__それだけでも、意味があると言ってもいいだろうか。
私たちはよく、海の広さに感動を覚えるけれど、空の広さには驚かない。私は、それが勿体ないと思う。だって空はこんなに広いんだから。海なんかよりずっと、ずっと傍であなたを見ている。海はあなたに会いに来られないけど、空は毎日姿を変えて、「今日はこんな服を着てみたよ」と無邪気に笑うように、毎日あなたに会いに来る。あなたのことは、空がいつも見てくれている。だから私も、空を毎日見てみることに意味があると信じている。「今日も私を見守っていてね」と微笑んでみる毎日は、きっと楽しいだろう。そうだ、これが豊かな気持ちを持っている理由だ。空が私を包んでいくれている、そう感じられるこの感覚があるから、生きていると思えるのだ。人は優しさを、温かさを感じて生きていく。
ああ、どうか、嬉しい時も、苦しい時も、私の傍で笑っていておくれよ。空だけはきっと、私を見捨てたりはしないのだろう。どうか、どうか私を優しく包んでおくれ。
『鏡』
鏡で見る自分と、写真で見る自分は違う。鏡の向こうにいる自分の方が、なんだかしっくり来る。写真だと、本当に写りが悪いなと感じる。他の人を写真に映しても、普段見ている姿と変わらないのに。自分だけ異常に阿呆らしい顔をしている。なんだか恥ずかしい。
人が鏡を見ている時、人は本当に『私』を見ているのだろうか。ふとした時に思う。鏡に映る自分の瞳を見ると、その中には鏡に映った自分がいて、その瞳に映っている私を反射して、それを何度も繰り返して、結局、本当の私は豆粒のようになってしまっているように思う。やっと写真に映せた私を見ても、これは私じゃない、と思ってしまう。だから、なんだか寂しくなる。私が一番『私』を見ていない。自分を可愛く見せようと必死の形相で鏡の前に立っているあの人も、見ているのは本物じゃない。他人しか本物を見られない。写真でさえも、映すのはレンズを通した私だけ。それですら『本物』ではないのだ。
私が自分自身を見られないとしたら、私は『私』を見失う。そうに違いない。私が『私』でいようとする時に、自身の姿を見られなければ、そもそも『私』って何なんだ、となってしまう。
唯一、自分を見る方法がある。それは、他人を頼ることだ。他人は、瞳を通して『私』を見る。鏡を通して見ることはない。最近はネットの発達で、人に会わなくても人を頼ることができる。けれども、私たちは会わないと『あなた』を見られない。スマホレンズを通して見た『あなた』なんて、ひとつも本物の『あなた』じゃない。それに気づかない私たちがいる。私たちは外見に囚われているように思う。大きな鏡の前に立っている。身長が何cmだとか、体重が何kgだとか、目は二重がいいだとか、足は細い方がいいだとか、馬鹿馬鹿しい。どんな体型でも、どんな顔でも、私たちは『あなた』だとわかる。
鏡は、『私』を見る道具のようで、結局は『私』を見失う道具だ。他人に頼らないと、『私』を見られないからだ。人に会わなくてもいい世の中で、『あなた』の隣で笑える『私』がいたら、素晴らしいな、と思う。
『いつまでも捨てられないもの』
いつまでも捨てられないもの。それはきっと、思い出が詰まったものだろう。意を決して、それを持って、ごみ袋に入れようとする。そうすると、そのものに関する思い出が、チラチラと頭の上を舞う。それで、『これは取っておこうかな』と考えて、元の場所に置いてしまう。
私は些細なものにすら思い出を感じて、捨てるのに躊躇してしまう。本当に、短くなって使えなくなった1本の鉛筆すら、未だに捨てられない。友人と旅行に行った時のおみくじの結果なんて、もっと捨てられない。もう意味なんてないはずなのに。それすら捨てられない私はきっと、文字通り本当に何も捨てられないのだろう。
人はものを捨てるのに躊躇する。私は、それは人が『忘れる』という能力を持っているからだと思う。『思い出す』という行為は、頭の中にある『思い出』の棚から、探したいものを探す行為だ。そして、人が捨てられない『もの』というのは、そのあまりに巨大な棚から、たった一つの思い出したい事柄を見つけるための手がかり__鍵なのだ。自ら鍵を捨てようなんて考える人はいない。
なら、逆に捨てられるものもあるが、それは一体何なのだ、ということになる。進んで捨てるもの__ごみに関する思い出はあるだろうか。例えば、これは私の個人的な経験になってしまうのだが、中学校の頃の友人と、夏休みにバーベキューをしたことがある。盛り上がって、暗くなって片付けを済まして、解散の流れになった。皆は参加費も払わずに帰っていき、私と数人の友人は、人気がなくなったバーベキュー場で、油でベトベトになったり、割り箸が突き出たりしたゴミ箱を持って自転車に乗った。ひとつもいい気分じゃなかったけれど、ふざけんな、と思いながら乗った自転車の風は爽やかだった。でも、もちろんそれは捨てた。いくら思い出だったとしても、ごみを残していたってどうしようもない。臭くなってくるだろうし、場所をとるだけだ。こんな汚くなったごみで、私にできることはない。じゃあ、その使っていない短い鉛筆は? 使っていないならごみじゃないの? これは、これはごみじゃない。小学生の時にずっと使っていた鉛筆なんだ。昔からずっと取って置いてるんだ。それに、まだ使える。
まだ使える?
そう言っておきながら、一度も使っていない。削ることもなければ、取り出すこともない。ここ数年、その鉛筆の姿すら見ていない。ただ、そこにあるということだけは知っている。当時、一生懸命に『大吉』『中吉』『小吉』と書き込んだ鉛筆がそこにあることくらい、覚えている。机の上でその鉛筆を転がしたことも。
一体何なのだろう、捨てるという行為は。お洒落な言い方をするならば、『思い出の継承』ということになるだろうか。使い古された自分の思い出を捨て、リサイクルして新しいものに生まれ変わって、顔も名前も、何も知らない誰かの元にそれが届いて、それがその人にとっての思い出になったとしたのなら、思い出は皆と繋がっているということにはならないだろうか。なんだか素敵な話に思える。けれど、自分は、もう少し長く、もう少しだけでいいから、その思い出に浸らせてほしいと願うのだ。あくまで、思い出は継承されていくものだが、共有されるものではないということだ。自分が持っている思い出は自分しか持てないのだ。それなら、余計大切にしたいと思う。
結局、ずっと捨てられないものなんて言うのは、自分の思い出の鍵であり、まだ使えると言い聞かせたものであり、それでも自分にとって害になるものなら、躊躇もなく捨てるということだ。ただ単純に、『捨てたくない』__『思い出の品』と思ったものは残しておきたいという、わがままな人間の欲望、ということなのだろう。
きっと人は、『忘れる』という能力を持っておきながら、『忘れたくない』と感じている。それを捨てれば、その棚は一生開かない。それが怖いのだ。それが嫌なのだ。だから、ものを捨てたくないと思うのだ。どれだけ部屋が散らかっても、それはすなわち、思い出の宝庫ということになるのだから。