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『いつまでも捨てられないもの』

いつまでも捨てられないもの。それはきっと、思い出が詰まったものだろう。意を決して、それを持って、ごみ袋に入れようとする。そうすると、そのものに関する思い出が、チラチラと頭の上を舞う。それで、『これは取っておこうかな』と考えて、元の場所に置いてしまう。
私は些細なものにすら思い出を感じて、捨てるのに躊躇してしまう。本当に、短くなって使えなくなった1本の鉛筆すら、未だに捨てられない。友人と旅行に行った時のおみくじの結果なんて、もっと捨てられない。もう意味なんてないはずなのに。それすら捨てられない私はきっと、文字通り本当に何も捨てられないのだろう。
人はものを捨てるのに躊躇する。私は、それは人が『忘れる』という能力を持っているからだと思う。『思い出す』という行為は、頭の中にある『思い出』の棚から、探したいものを探す行為だ。そして、人が捨てられない『もの』というのは、そのあまりに巨大な棚から、たった一つの思い出したい事柄を見つけるための手がかり__鍵なのだ。自ら鍵を捨てようなんて考える人はいない。
なら、逆に捨てられるものもあるが、それは一体何なのだ、ということになる。進んで捨てるもの__ごみに関する思い出はあるだろうか。例えば、これは私の個人的な経験になってしまうのだが、中学校の頃の友人と、夏休みにバーベキューをしたことがある。盛り上がって、暗くなって片付けを済まして、解散の流れになった。皆は参加費も払わずに帰っていき、私と数人の友人は、人気がなくなったバーベキュー場で、油でベトベトになったり、割り箸が突き出たりしたゴミ箱を持って自転車に乗った。ひとつもいい気分じゃなかったけれど、ふざけんな、と思いながら乗った自転車の風は爽やかだった。でも、もちろんそれは捨てた。いくら思い出だったとしても、ごみを残していたってどうしようもない。臭くなってくるだろうし、場所をとるだけだ。こんな汚くなったごみで、私にできることはない。じゃあ、その使っていない短い鉛筆は? 使っていないならごみじゃないの? これは、これはごみじゃない。小学生の時にずっと使っていた鉛筆なんだ。昔からずっと取って置いてるんだ。それに、まだ使える。
まだ使える?
そう言っておきながら、一度も使っていない。削ることもなければ、取り出すこともない。ここ数年、その鉛筆の姿すら見ていない。ただ、そこにあるということだけは知っている。当時、一生懸命に『大吉』『中吉』『小吉』と書き込んだ鉛筆がそこにあることくらい、覚えている。机の上でその鉛筆を転がしたことも。
一体何なのだろう、捨てるという行為は。お洒落な言い方をするならば、『思い出の継承』ということになるだろうか。使い古された自分の思い出を捨て、リサイクルして新しいものに生まれ変わって、顔も名前も、何も知らない誰かの元にそれが届いて、それがその人にとっての思い出になったとしたのなら、思い出は皆と繋がっているということにはならないだろうか。なんだか素敵な話に思える。けれど、自分は、もう少し長く、もう少しだけでいいから、その思い出に浸らせてほしいと願うのだ。あくまで、思い出は継承されていくものだが、共有されるものではないということだ。自分が持っている思い出は自分しか持てないのだ。それなら、余計大切にしたいと思う。
結局、ずっと捨てられないものなんて言うのは、自分の思い出の鍵であり、まだ使えると言い聞かせたものであり、それでも自分にとって害になるものなら、躊躇もなく捨てるということだ。ただ単純に、『捨てたくない』__『思い出の品』と思ったものは残しておきたいという、わがままな人間の欲望、ということなのだろう。
きっと人は、『忘れる』という能力を持っておきながら、『忘れたくない』と感じている。それを捨てれば、その棚は一生開かない。それが怖いのだ。それが嫌なのだ。だから、ものを捨てたくないと思うのだ。どれだけ部屋が散らかっても、それはすなわち、思い出の宝庫ということになるのだから。

8/17/2024, 3:14:42 PM