(題目しらず)
「あった」
私は包丁を見つけた
包丁を探してキョロキョロし
何故かなかなか見つけられず
その最中に言ったひと言だった
私が包丁の場所を認識したのは
その言葉を発した直後だった
脳が独自に包丁の場所を認識し
「あった」と私に伝えた後
私は包丁の場所を知覚したのだ
「あった」。
私は包丁を見つけた。
会えない苦しみに
涙するから
逢える喜びに
涙するから
離れる寂しさに
涙するから
孤独を感じるむなしさに
涙するから
(題目しらず)
「○○過ぎている」人は
「○○られている」ことを受け入れてくれない
謝り過ぎている人は
謝れていることを受け入れてくれない
謝らなさ過ぎてトラブルになり
困っている人をたくさん見てきた身としては
まず、謝れていることを受け入れてほしい
なぜ「あなたは謝れている」と言うと
表情がゆがみ、“変”な顔で
こちらを見てくるのか
ちなみに謝らなさ過ぎている人も
謝らないでいられている
「○○過ぎ」も「○○しなさ過ぎ」も
あくまで程度の問題なのに
なぜ「○○し過ぎる」と表現すると
まるで別の動作かのように扱うのか
もちろん全員が全員ではないが
「○○できている」と受け入れられれば
もう少し別の世界が広がっているのではないか
私自身がそうだったから
そう思う
食べ過ぎも食べられている
遊び過ぎも遊べている
寝過ぎも寝られている
痛すぎは…痛みを感じられている?
痛覚がない人はあちこち骨折しているらしい
別物として扱うのではなく
程度の問題と正しく認識すれば
振り子が次第に止まっていくように
あるべきところに留まれるように
なるのではなかろうか
(題目しらず)
力が入っている時
人は力が入っていると認識できない
自然と肩に力が入っている時
しばらくしてからようやく気づくか
肩が激しく凝っていても
いつ力が入っていたか分からないように
じゃあ力が入っていると気づいた時
人は力を抜くことができるのか?
力を抜いた気にはなれると思うが
実際にはまだ力が入っているのだと思う
力を入れるという動作は
イメージして実行しやすいが
力を抜くという動作は
動作してはいけないため
イメージもしにくく実行もしにくい
体のどこかに力が入っていれば
連動するように力が入るものなのだと思う
寝ていても力が入っているのに
起きながらにして
どうやって力を抜くのだろう
できる人にはできるのだと思うが
私にはまだまだ難しい
気づかないうちに力が
私のどこかに秘められている
(題目しらず)
私はある一点をずっと見続けていた。
次第に白っぽい膜がかかってくる。
その正体は補色だろう。
視線を他に移せば逆転した色で
先程の景色が薄ぼんやりと
どこまでもついて回る。
人は視線を一切動かさず
一点を永遠と見続けられた場合
世界はいったいどうやって映るのだろう。
全体が白く見えるのだろうか。
少なくとも
視線を動かしている時ほど世界は明瞭でなく
霞みがかって見えることは想像がつく。
同じところしか見ていないと
世界は不明瞭になるのだろう。