さて、前回に引き続き子供時代の私の頭の中を紹介しよう。
これが最後。絶対に最後にする。
もうこれ以上付き合わせない。
きっと…。
前回から3年後、中学3年生の頃の考え事だ。
タイトルは『地球温暖化』。
どうぞ。笑
あ!
なお、誤字脱字があってもそのままにする。
今度こそ、どうぞ。
突全だが、もしインフルエンザになったとき、人間はどういう反応をするだろうか。まず、せきなどがでる。そして、熱を出してしまう。それは、体の中に入った病原菌を殺すために熱を出すのだが、それには、ちょっとした危険がついている。それは、自分の出した熱が高すぎたりすると、その熱で脳がやられ、傷害が残ったり、わるければ死んでしまうことだ。そんな危険なことをなぜするか。それは、それしか方法がない、つまり、最終手段ということだ。
さて、最近は地球温暖化が進んでいるという。地球温暖化とは、二酸化炭素などの温室効果ガスが多くなり、太陽の熱があまりにげなくなってしまったため、地球の温度が高くなってしまうことをいう。
では、地球温暖化を分かりやすく説明しよう。
地球を人の体、人間をインフルエンザウイルスとしよう。まず人間が二酸化炭素などを出して、地球という体をいためてしまう。すると、地球は、森林などふせげるものがないため、自分の体の温度を上げていき、病原菌を殺そうとする。それが、地球温暖化だ。しかし、地球がなぜ、今になって地球の温度を上げるのか。それは、始めに言っていたように、かなり、危険をともなうからである。もしかすると、これによって、地球自体が破めつしてしまうかもしれない。地球は、最終手段までも使ってしまったのだ。この美しい地球がただのわくせいになってしまうとき、それは、人間に起こされた悲劇なのだ。
らしい。
う~ん、悦に入っている。
悦に入っているが、誤解しないでやってほしい。
当時は他人に公開されない予定だったからこう書いているのであって、ここにそのまま書いたということは、当時の自分が悦に入っているのではなく、今の、この私が悦に入っている。ということになる…。
なお、この考えをおもしろいなと思う分にはいいけれど、たしかに!なんて思わないでほしい。
なぜなら、この先には「人類は害でしかないから1人残らず滅亡すべき」という考えが腕を広げて今か今かと待ち受けているからだ。
破滅思想はガン細胞になってしまう。
秋風が葉を揺らし、鮮やかな赤が吹き抜けていくような、そんな美しい地球がいつまでも残ってくれたらいいなぁと、そんな思いで書き残すことにする。
小学校6年生の頃から何か止めどなく思うようになり、その年齢時点での考えを日付と共にノートに書き残すようになった。
ふと考えることがあり、見返してみたらそれなりにおもしろいことを書いていたため、小学生が考え事をするとどうなるか、気になる人は読んでいっていただければ…。
たぶん、公開したと当時の自分に知られれば、ボコスカ叩かれてキレられると思う。
題は『自然と人間』とのことだ。
どうぞ。(長いよ。心してかかれ。)
理科の勉強をしながら思った。
病気がある理由は、神様が人間をほかの動物と同じように、バランスをとろうとしたからではないか。しかし、人間は、だんだん知恵を得て、病気をなおせるようになった。そのため、人間が、病気によって死ぬことはなくなった。
長生きできるようになった人間は、自然をはかいしながらしんぽしていった。そのため、人間は、人間のあやまちで死ぬことになるだろう。
人間は、自然があるから、生きているということをわすれてはならない。
そこらへんにはえている草を、ばかにしてはならない。木は、まだたくさんあるとはおもってはならない。植物があるからこそ動物も人間も生きていけるのだ。自然のおかげで、水はきれいで、のむことができるのだ。
自然のおかげで酸素があり、息をすることができるのだ。
自然のおかげで、食べ物があるのだ。私たち人間が食べている動物も、植物を食べているのだ。
人間は、自然があるのは、ふつうだと思っている人が多い。私はちがうという人も、つい、考えてしまうものだ。これからさき、自然があるとはかぎらない。だからこそ、今から、自然をふやさなければならない。ところが問題は、一度自然としての機のうをなくしたところは、そうかんたんにはもとにもどらないということだ。このまま自然がへっていくと、とりかえしのつかないことになってしまうのだ。これからは、全世界の人々が、このことを考えなければならない。そして、じっこうすることがたいせつだ。
こんな言葉がある。
『一将功なりて万骨枯る』
意味は、功名を立てた者のかげには、そのためにぎせいとなった人が多くいるものだということだ。
人は、しんぽするため、いろいろなものをつくる。
だが、そのうらには、数多くの森林がぎせいとなった。だが、こんな言葉もある。
『雨だれ、石を穿つ』
微力なものでも、根気よく努力すればやがては成功するということだ。
一度、自然としての機のうをなくしたところをもどすのは、大変だ。しかし、すこしずつでもしていけばいつかは、もどるときがくるだろう。だから、人間は、自分たちがやったことは、自分たちのてでなおす義務があるのだ。
権利があるものには、義務がある。しかし、その義務を、ほおっておけば、あとは、悪いことばかりつづくものだ。人はいそいで、活動しはじめなければ、あとにのこるものは苦労だけだ。
『地球にいるからには、ひとりひとりがじかくをもつことが大切』
だそうだ。
ひらがなが多くて書くのが疲れた…。
この頃の私はまだマイルドだが、その後「人類は害でしかないから1人残らず滅亡すべき」という発想に飛躍していく。協和という考えはなくなってしまったようだ。
そんな私が病気になり、人の苦しみに目を向けるようになったのも、神様がバランスを取ろうとしたのかもしれない。
テーマは「また会いましょう」だったかな?
当時の自分に会ってきたという話でした。
《追記》
「この書き出しって…」と思い調べたら当たっていた。夏目漱石の「草枕」だ。
たぶん草枕に刺激されて書くようになったんだな。笑
(題目しらず)
赤ちゃんの頃から我慢してばっかりだ 笑
家に風呂がなく公衆浴場に通っていた。
私を洗った後、母自身が洗う時間を設けるため
近所のおばちゃんが私を湯船につける。
あれが嫌だった。
理由は知らないが嬉しそうな顔して
湯船からおばちゃんが手を伸ばしてくる。
底に足もつかない体は
お湯でぬるぬるとした感触に変化した肌に
全身が包まれる。
他人の体にぬるぬると…
あれが本当に嫌だった。
嫌な顔をすると大切な人(母)の立場を悪くする。
それで泣きわめくなんてことはしなかった。
赤ちゃんだって気を使う。
言葉などの伝達手段を持ってないからか
嫌な気持ちを伝えようという発想さえなかった。
泣きわめかないなら、我慢するほかない。
迷惑をかけてはいけない。
全身はぬるぬるして気持ち悪い。
せめてもの安心感?で、体を洗う母親を
じっと見つめるしかなかった。
私は今、部屋の中を漠然と見ている。
目に入る物の名前を認識せず漠然と見ている。
ふとここで物の名前を意識してみる。
それまで自由に広がっていた世界が
名前をつけたり認識した途端
凝り固まった小さな物として捉えてしまう。
結界が張られた
個として際立った
と言ってもいいかもしれない。
よく分からない人は
「役割が決められきってしまった」
と捉えてくれてもいいが、
この話はそこに留まらないことだけ
留意してほしい。
しかし名前には反対に
世界を跳躍する能力も持っている。
そこに風を送っている物がある。
羽根が回転している。
名前は「サーキュレーター」。
そう聞くだけで、
ただ回転して風を送っていただけの物体が
他の物より静かに遠くに
風を送っているイメージが思い浮かぶ。
目の前に広がる世界より
より多くの情報を伝えてくれる。
ススキが揺れる
さらさらと
我々は結果を見ているだけ
溶け残りが入ったカップ
ぐるぐるとかき回す
中で渦巻く、銀河のよう
我々は結果を見ているだけ
結果を見ているだけだから
それ以外の条件が存在しないのは当たり前
必然なのは当たり前
結果が起こる前は
無数の条件が偶然という名前で存在し
結果が起こった後は
唯一の条件が必然という名前で存在する
冷たく聞こえるかもしれない
でも、結果と条件と無数の存在を意識すると
結果を柔らかく受け入れられる
パラレルワールドなんて言葉を知る我々は
ススキの揺れが必ずしも一緒じゃないと想起する
それは目に見えない物理現象という条件が
そのたびそのたび風の揺らぎを変えるから
でも、この世の全ての条件を固定して
繰り返し繰り返し再現する存在がある
録画して再生してみればいい
再生するたび同じ映像が見えるのは
全ての条件を固定して再現しているから
一つたりとも条件の変更は許さない
人が認識してない条件まで固定する
何一つとして条件を変えず
繰り返せる存在は稀だろう
人の思想思考も条件
相手が怒らせるから怒るのではなく
自分に怒る条件が揃ったから怒る
同じ人と接しても
怒る人怒らない人と差が出るのが証拠だろう
怒ってしまうのは仕方ない
あくまで条件が揃っただけ
我々は結果を見ているだけ
何かを正したいと思うなら
そうならない条件にしてやればいい
思想思考でそうできることもある
もちろん他のことでもね
(まだこの考えは私の中でぼやっとしている。
はっきり見えないということは、間違いがある、見えてないことがあるという証拠。私の投稿のほとんどがそう。笑)