とらた とらお

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小学校6年生の頃から何か止めどなく思うようになり、その年齢時点での考えを日付と共にノートに書き残すようになった。

ふと考えることがあり、見返してみたらそれなりにおもしろいことを書いていたため、小学生が考え事をするとどうなるか、気になる人は読んでいっていただければ…。
たぶん、公開したと当時の自分に知られれば、ボコスカ叩かれてキレられると思う。

題は『自然と人間』とのことだ。
どうぞ。(長いよ。心してかかれ。)


理科の勉強をしながら思った。
病気がある理由は、神様が人間をほかの動物と同じように、バランスをとろうとしたからではないか。しかし、人間は、だんだん知恵を得て、病気をなおせるようになった。そのため、人間が、病気によって死ぬことはなくなった。

長生きできるようになった人間は、自然をはかいしながらしんぽしていった。そのため、人間は、人間のあやまちで死ぬことになるだろう。

人間は、自然があるから、生きているということをわすれてはならない。

そこらへんにはえている草を、ばかにしてはならない。木は、まだたくさんあるとはおもってはならない。植物があるからこそ動物も人間も生きていけるのだ。自然のおかげで、水はきれいで、のむことができるのだ。
自然のおかげで酸素があり、息をすることができるのだ。
自然のおかげで、食べ物があるのだ。私たち人間が食べている動物も、植物を食べているのだ。

人間は、自然があるのは、ふつうだと思っている人が多い。私はちがうという人も、つい、考えてしまうものだ。これからさき、自然があるとはかぎらない。だからこそ、今から、自然をふやさなければならない。ところが問題は、一度自然としての機のうをなくしたところは、そうかんたんにはもとにもどらないということだ。このまま自然がへっていくと、とりかえしのつかないことになってしまうのだ。これからは、全世界の人々が、このことを考えなければならない。そして、じっこうすることがたいせつだ。

こんな言葉がある。
『一将功なりて万骨枯る』
意味は、功名を立てた者のかげには、そのためにぎせいとなった人が多くいるものだということだ。
人は、しんぽするため、いろいろなものをつくる。
だが、そのうらには、数多くの森林がぎせいとなった。だが、こんな言葉もある。

『雨だれ、石を穿つ』
微力なものでも、根気よく努力すればやがては成功するということだ。
一度、自然としての機のうをなくしたところをもどすのは、大変だ。しかし、すこしずつでもしていけばいつかは、もどるときがくるだろう。だから、人間は、自分たちがやったことは、自分たちのてでなおす義務があるのだ。

権利があるものには、義務がある。しかし、その義務を、ほおっておけば、あとは、悪いことばかりつづくものだ。人はいそいで、活動しはじめなければ、あとにのこるものは苦労だけだ。

『地球にいるからには、ひとりひとりがじかくをもつことが大切』


だそうだ。
ひらがなが多くて書くのが疲れた…。
この頃の私はまだマイルドだが、その後「人類は害でしかないから1人残らず滅亡すべき」という発想に飛躍していく。協和という考えはなくなってしまったようだ。

そんな私が病気になり、人の苦しみに目を向けるようになったのも、神様がバランスを取ろうとしたのかもしれない。

テーマは「また会いましょう」だったかな?
当時の自分に会ってきたという話でした。


《追記》
「この書き出しって…」と思い調べたら当たっていた。夏目漱石の「草枕」だ。
たぶん草枕に刺激されて書くようになったんだな。笑

11/14/2024, 2:18:35 AM