子供の頃にしてもらったこと
やってしまったこと…
大人になってふと思い出し
連なるように記憶が引き出される
亡くなった祖母の記憶
次々出てくる記憶に
「よくこんなこと覚えてたなぁ 笑」
と思うほど何気ない、けれど
笑い合い楽しんでいた頃のものがあった
寝ようと目を閉じていた顔に
自然と笑みが溢れる
いくつか見れて幸せだ
そこに暗い記憶がひとつ
背中に水滴が落ちたように
ヒヤッとすると同時に胸が微かに震える
ひとつ、ふたつとポツポツと
水滴がいつの間にか涙になって流れていく
優しい記憶がほとんどでも
時にそうした記憶が作り出されるのは
仕方のないことだろう
今日のところは
優しい記憶を追加で思い出し
おばあちゃんに感謝の気持ちを述べて
もう一度眠りにつくことにした
私の胸を打つ記憶
そうした記憶が私をつくり
その私が人の記憶の源となる
こうして人は循環していくのかもしれない
線引きはどこにあるのだろうか。
痛みを痛みとしない。
苦難を苦難としない。
これは人々に称賛される。
しかし、称賛と迷惑の線引きはどこに。
擦り傷を喚き散らす。
ひどい傷にも何も言わず耐える。
迷惑と称賛とに分かれる。
誰が見ても明らかな苦難。
耐えに耐えると称賛され、
耐えきれず波及すると迷惑となる。
これらは耐えようと耐えまいと、
痛み、苦難の根本は無くならない。
放っておけば治るものと
放っておいたら酷くなるもの。
耐えられれば耐えられる人ほど、
その線引きが分からなくなるのではないだろうか。
時代が変われば線引きも変わる。
称賛と迷惑は向かい合わせ。
その曖昧な線引きはどこにすればよいのだろう。
もののけ姫を見ながら思ったが
「頑張れぇ!」とは
「耐え抜け!」か
(題目しらず)
アウトプットとインプット
どちらが先?
あなたは
どちらだと思う?
わたしは
どちらも先だと思う
人は自分を取り巻く世界から
何かをインプットして
初めてアウトプットする
例えば
何かを見て疑問に思い
問い掛けるように
でもそのインプットした何かは
すでに何かしらがアウトプットしたものだ
つまり
アウトプットされて初めて
インプットすることができる
インプットがなければアウトプットできず
アウトプットがなければインプットさえできない
インプットが先であり
アウトプットも先だ
世界が無となっても
無が認識できてしまった時点で
無の世界はアウトプットとなり
認識した存在は無をインプットする
世界はアウトプットが先で
認識した存在はインプットが先になる
周りの誰かが焦っていると
不思議と私は冷静になる
ならば、私が焦っている振りをすれば
周りは不思議と冷静になるのだろうか
他人(ひと)が冷静に胸張って生きられるのなら
蔑まれようが私は喜んでそれを演じる
そうでありたい