線引きはどこにあるのだろうか。
痛みを痛みとしない。
苦難を苦難としない。
これは人々に称賛される。
しかし、称賛と迷惑の線引きはどこに。
擦り傷を喚き散らす。
ひどい傷にも何も言わず耐える。
迷惑と称賛とに分かれる。
誰が見ても明らかな苦難。
耐えに耐えると称賛され、
耐えきれず波及すると迷惑となる。
これらは耐えようと耐えまいと、
痛み、苦難の根本は無くならない。
放っておけば治るものと
放っておいたら酷くなるもの。
耐えられれば耐えられる人ほど、
その線引きが分からなくなるのではないだろうか。
時代が変われば線引きも変わる。
称賛と迷惑は向かい合わせ。
その曖昧な線引きはどこにすればよいのだろう。
もののけ姫を見ながら思ったが
「頑張れぇ!」とは
「耐え抜け!」か
(題目しらず)
アウトプットとインプット
どちらが先?
あなたは
どちらだと思う?
わたしは
どちらも先だと思う
人は自分を取り巻く世界から
何かをインプットして
初めてアウトプットする
例えば
何かを見て疑問に思い
問い掛けるように
でもそのインプットした何かは
すでに何かしらがアウトプットしたものだ
つまり
アウトプットされて初めて
インプットすることができる
インプットがなければアウトプットできず
アウトプットがなければインプットさえできない
インプットが先であり
アウトプットも先だ
世界が無となっても
無が認識できてしまった時点で
無の世界はアウトプットとなり
認識した存在は無をインプットする
世界はアウトプットが先で
認識した存在はインプットが先になる
周りの誰かが焦っていると
不思議と私は冷静になる
ならば、私が焦っている振りをすれば
周りは不思議と冷静になるのだろうか
他人(ひと)が冷静に胸張って生きられるのなら
蔑まれようが私は喜んでそれを演じる
そうでありたい
「蛍を見に行こう」
父に誘われ兄と行く
滅多に子供と関わらない父
蛍に誘われうきうきな自分
父も兄も自転車で
私はというと…
父の自転車の荷台で
あの恐怖体験は忘れない 笑
古い自転車の荷物置き
振り落とされまいと
必死に荷台を握りしめる
おしりは痛い
段差で左右にずれていく
小さな子でも死の恐怖ぐらい分かる
記憶の蛍は最初に見た数匹だけ
あんなに早く終わって欲しい蛍探しは
後にも先にもあの時だけ