束の間の休息
私を長い間苦しませてきた表皮の黴がいったんおさまりました。束の間の休息です。地雷だの不発弾だの火種は中に埋もれたままですが、以前に比べたらその活動量は雲泥の差です。あの黴も私のこどもたちですけれど、さすがに最近はおいたが過ぎました。兄弟喧嘩なら放置します。でも兄弟であるとの認識もなく一方的にいたぶるのは許したくありません。なので私はちょっと身震いしました。ぶるぶるぶるっ。私の表皮にいた黴…あの黴どもは人間と自称していましたが、あの黴どもはどんと数を減らしました。まあまたそのうち増えるでしょう。あの黴どもは私を一応は母と見なしているようです。母なる地球と口にしていました。黴どもにとって私の名は地球というらしいのです。
力を込めて
力を込めることなど日常生活では滅多にない。そうだね、力を込めるとしたら、たとえば瓶の蓋を開けるとき。そのくらいしかない。あるいは踏ん張ってなんか身体から出すときだ。だからこんなのは全くの想定外だ。悪魔野郎は小馬鹿にするようににやにや笑って俺を見た。
「できる限り力を込めてドアが開くのを阻止してみてくださいね? ドアが開いたら瘴気が吹き出します。あなたが阻止しなかったらこの近隣の人がみんな死にますよ」
なんの嫌がらせなんだ。俺はいったいどんな悪いことをしたんだ。俺は何もしていないのに悪魔野郎の罠にはまった。たぶん俺の両親のせいだ。俺の両親は悪魔を呼び出す研究に失敗して焼死した。
俺は渾身の力を込めて小屋のドアを外から押さえながら叫んだ。誰か。誰か。きてくれ!驚くことに10人以上来てくれた。町外れとはいえ小屋が町中にあってよかった。俺は説明した。これまで人生でこんなに力を込めて説明したことはないというほど説明した。俺はこれまでまっとうに生きてきた。それを今ほど感謝したことはない。みんな俺の言い分を信じてくれたのだ。単なる一介の孤児であった俺、これまで使い走りしかしていなかった俺のことを。
探索ギルドが動いた。魔術師ギルドも動いた。俺が属してる探索ギルドのみんなはドアを押さえてくれた。魔術師ギルドはドアの向こうに確かに危険な瘴気があることを知らしめてくれた。準備万端に整え、何人もで押さえていたドアが開き、瘴気は魔術師によって浄化された。俺は感極まって泣きそうだった。俺は一人ではないのだとはじめて納得した。
過ぎた日を想う
やまとの文字はよくわからない。そもそもやまとには文字がなくて海の向こうのやつらの文字らしい。でもおれはそれなりに学んだ。「おもう」だって大雑把に三種類あるが、おれは「想う」を使いたくないのだ。「想う」にはこいねがう意味がある。おもう相手を振り向かせたいあの切ない気持ちが「想う」だ。意味はわかる。おれはその気持ちも願いも否定しない。だがおれのこのおもいをそのような「想う」だとおもってほしくないのだ。おれが願うのはやまとのやつらが来る前のこの山河。おれを育ておれをひとりだちさせたこの山河。おれは過ぎた日をおもう。おれはこのおもいにやまとと海の向こうのやつらの気持ちも考えも混ぜたくないのだ。あいつらがおれの名をどのような文字で書くかおれは知らない。
星座
星座ってのは理不尽なもんだなあ。いま見える、ほらあれはアンドロメダ座だ。アンドロメダのαは97光年離れてる。アンドロメダ銀河は250万光年遠くだ。とんでもなく離れたものが地球では同じ星座に並んでる。250万光年も離れてるってことは、時間もそれだけ違うんだぜ。そのまるで違うものが並んで見えるって、めちゃくちゃ理不尽で不思議だよなあ。
ジイさんは饒舌に語ったあと眠ってしまった。ほくは宇宙船の窓から宇宙を見上げる。ぼくたちが地球を離れて40年。アンドロメダ座はもうアンドロメダ座の形をなしていないらしい。船生まれのぼくはそもそもの星座を書物と映像でしか知らない。星座というのは不思議なものだ。時間も空間も離れたものを見かけだけでまとめてみなした美しい虚像。
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星座の話は大好きです。こどものころ草下英明や藤井旭の星座の本が好きでよく読みました。野尻抱影もいくらか読みました。特に好きな星座はからす座です。春の夜空のからす座はぴんと張ったヨットの帆のようでどこかに進んでゆきそうな気がします。夏の夜空のとかげ座といるか座と、こと座とかんむり座も好きです。天の川の中にある小さな星座のような小ぢんまりした星座が好きです。
冬の星座は明るくて派手なのが多いですが、小さな星座もあります。私は以前「オリオンの足に踏まれたうさぎ座のそのまた下の星みたいな人」という短歌を書きました。ちなみにうさぎ座の下にあるのはハト座。暗い星ばかりの小さな星座ですが、ノアの方舟にオリーブの葉を運んだハトだそうで、なんとなく希望を運びそう。
「時間も空間も離れたものがひとつの瞬間に出会ったもの」を星座(Konstellation)と見なす元ネタはヴァルター・ベンヤミンです。私たちの思考はそれぞれ違う唯一無二の星座なんだと思います。
踊りませんか?
その誘いに乗るということは、あたしにとってはただ一度だけのこと。あなたにとっては数多くの適当なお誘いのひとつ。それくらいあたしだってわかっているわ、だけどあたしはあなたにそれを言わない。だってそんなこと言ってもこれっぽっちもいいことないし、よく考えたらあたし、あたしの身の上にいま何が起きてるかわかってないのだわ。夢かおとぎ話でないのならいま起きていることはなんなのかしら。あなたがツァーリと呼ばれているのをあたしは聞いてしまった。でもあなたにどんな立場の誰だとしても、あなたが「踊りませんか?」と言ったら断れるわけがないのよ。あなたがツァーリであっても、なくても、あたしの気持ちは偽れないのだもの。
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元ネタは映画「会議は踊る」です。よくある男爵令嬢や平民の女の子が王太子をたらしこむ話を書いたんじゃありません。そうした話の元ネタの一つとして「会議は踊る」を見てほしいかなと思いました。最近の異世界恋愛ものでは悪役になりがちな平民ヒロインの愛らしさを、たまには堪能してみてください。