喪失感
喪失感があるうちはまだまだほんとに喪失したわけじゃないんだよ、つまり記憶にあるうちは死んだとは言えないのさ、と君は笑って言った。その笑顔も声音も思い出せるのに、箱根の恐ろしい坂をドライブしたり青春18きっぷで深夜の鈍行に乗ったりオールで酒飲んだり、君とバカなことをたくさんしたのも覚えているのに、君の少し色素の薄い癖っ毛と灰色の瞳も思い浮かぶのに、なのに、僕は君が誰か思い出せないのだ。名前も僕との関係性も思い出せない。君が生きてるか死んでるかもわからない。友人知人は全く君を知らない。君は僕に何をした? 君は何者だ? 誰とも共有できない喪失感が凄まじい。君に会いたい。
世界に一つだけ
「私という個性は順列組み合わせに過ぎない。私の書く言葉が結局は順列組み合わせでしかないように。しかし私という順列組み合わせは世界に一つだけ、今ここにしかない。」
押し入れの奥で見つけた古びた日記帳には母の記名があった。一瞬私が19歳のとき書いた日記かと思ったが、母の字だ。母も私も若い頃は似たようなこと考えたんだな。順列組み合わせイコール個性って考えすごいな!私エライ!って当時思ったんだよねえ、あはは。それでも、今ここにある私という順列組み合わせは、世界に一つだけ。
胸の鼓動
私に胸と呼ばれる部分はありますが、そこに心臓はありません。私はアンドロイドですから心臓はありません。不要です。当然胸の鼓動など存在しないのですが、マスターは夜寝る前に私の左胸に耳を当てるのです。「やっぱり聞こえないねえ」と笑って眠るマスターの顔を見ながら私は二通りの推測をします。マスターは私の左胸に鼓動が感じられないことを毎日確かめて、鼓動がないことにがっかりする。あるいはほっとする。どっちなのでしょうか。左胸にこっそりと古めかしい懐中時計でも忍ばせてみましょうか。マスターは知らないと思いますが、私にも私のリズムが、鼓動があります。私の鼓動は私の左胸にはありませんが、機械が作り出すこの鼓動は確かに私を生かしめているのです。
踊るように
「ではこれで今日の数学の授業は終わりだ。各自そこで踊るように。いいか、聞き間違いでも言い間違いでもない。各自そこで踊るように。わかったか?」
35歳独身の高校数学教師がそう言い放って教室を出ていったので、教室内は騒然とした。踊るようにってどういうこと? とりあえず踊りだしたやつがいたが、あいつは毎日踊ってる、小学生のときからヒップホップダンスをやってるらしい。しばらくして校内放送が流れた。
「各自そこで踊ってください、じゃなかった、各自そこで踊るように、です」
意味がわからず顔を見合わせていると、同報無線が聞こえてきた。
「こちらは広報〇〇です。〇〇市役所からお知らせします。各自そこで踊るように」
窓から外を見た生徒が声を上げた。
「みんな踊ってる! なんでだ!」
私の意志を無視して私の手足は勝手に踊り始めた。
時を告げる
私が生まれ育った山間の小さな部落は同姓が多く、姓でなく屋号で呼び合うのが常だった。ブンザヤシキ、ヤダイ、カネサ、元の意味など忘れられて久しい屋号がほとんどだったが、私の家の屋号トキノヤにはいわれが伝わる。時計があるわけでも鐘があるわけでもないこの家、しかしこの家の古井戸が「時を告げる」のだという。「時を告げる」のがどういうことか私は知らないが、「時を告げる」の意味がわかったと言った父はしばらくして肺がんで死んだ。「時を告げる」とはこういうことなのねとつぶやいた母はその夜脳出血で亡くなった。