踊るように
「ではこれで今日の数学の授業は終わりだ。各自そこで踊るように。いいか、聞き間違いでも言い間違いでもない。各自そこで踊るように。わかったか?」
35歳独身の高校数学教師がそう言い放って教室を出ていったので、教室内は騒然とした。踊るようにってどういうこと? とりあえず踊りだしたやつがいたが、あいつは毎日踊ってる、小学生のときからヒップホップダンスをやってるらしい。しばらくして校内放送が流れた。
「各自そこで踊ってください、じゃなかった、各自そこで踊るように、です」
意味がわからず顔を見合わせていると、同報無線が聞こえてきた。
「こちらは広報〇〇です。〇〇市役所からお知らせします。各自そこで踊るように」
窓から外を見た生徒が声を上げた。
「みんな踊ってる! なんでだ!」
私の意志を無視して私の手足は勝手に踊り始めた。
時を告げる
私が生まれ育った山間の小さな部落は同姓が多く、姓でなく屋号で呼び合うのが常だった。ブンザヤシキ、ヤダイ、カネサ、元の意味など忘れられて久しい屋号がほとんどだったが、私の家の屋号トキノヤにはいわれが伝わる。時計があるわけでも鐘があるわけでもないこの家、しかしこの家の古井戸が「時を告げる」のだという。「時を告げる」のがどういうことか私は知らないが、「時を告げる」の意味がわかったと言った父はしばらくして肺がんで死んだ。「時を告げる」とはこういうことなのねとつぶやいた母はその夜脳出血で亡くなった。
貝殻
病気の牡蠣だけが真珠を作るのです、と半ば泣きながら彼は演説したが、ほとんど誰にも意味がわからなかっただろう。まあ牡蠣もごくたまに真珠を作るんだろうけど、真珠はアコヤガイからとるのよね普通は、と私は思ったけど、そういう問題でもない。あのバカはR・A・ラファティのSF「素顔のユリーマ」から引用したのだ。オリジナルじゃない。あいつは天才だけどオリジナリティはあんまりないのだ。盗みと模倣と推理の天才。そうあいつは天才的なホワイトハッカー。
ホワイトハッカーとして名前だけは有名だった彼が今日はじめて世間に顔を見せ、涙目で演説した。そして閲覧者みんなをドン引きさせた。引退するつもりだと昨日聞かされたとおりにあいつは引退するんだろう。LIVE配信が終わり、彼がいつも使ってた牡蠣殻のロゴだけが画面に映っている。これまで牡蠣殻ってあまり美しいと思わなかったけど、内側が美しい貝殻なのだね。あいつがまだ私と連絡をとってくれるなら牡蠣殻は美しいと伝えることにしよう。
きらめき
あれは私がたぶん幼稚園の年中さんだったときだから、いやあ自分で驚いちゃうけど半世紀前のことだ。私は幼稚園の園舎にいて、外では雨が降っていた。窓から園庭を眺めると、水たまりに落ちる雨がダイヤモンドのようにきらめいて見える、と幼稚園児である私は思った。水たまりから目を離して空を見ると、空の半分が黒雲で暗く、もう半分は白い雲と青空であかるく、雨が降っているのに日が差して、いわゆる天気雨や狐の嫁入りと呼ばれる空模様になっていた。私は生まれて初めて見た天気雨と水たまりのきらめきに驚き、これを一生覚えていることにしようと心に決めた。あの光景を忘れないように何度も何度も記憶を反芻したから今もはっきりとあのきらめきを覚えていて、天気雨の日は必ずあの日のことを思い出す。
些細なことでも
些細なんて言われると些細の定義について考えてしまうので私は会話が苦手なのだ。些細とは細かくてささやかでちょびっとでちっちゃいことだ。些細って言葉には、取るに足らない、あまり重要ではない、どうでもいい、そういう意味もあるとは思うけど、私はそういうの好きじゃない。こういうお題で「些細なことでも大切にしよう」だの「些細なことでも気になってしょうがないことはある」だの「些細なことでも連絡しよう」だの、果ては「世の中には些細なことなんかないみんな重要だ」だの書くことは可能だけど、書きたくない。というより、こういう価値観がからむお題が苦手でどうにもうまく書くことができない。私は、机の上の消しゴムカスとか、ダンゴムシの足とか、今日数えた畳の目の数とか、ラーメンに浮いてる脂とか、ほんとに些細でどうでもいいお題が好きだ。