近きより遠き
登るより沈む
在るよりも在らぬ
観られぬより観る
選ぶ恋より選ばぬ愛
語る品より語らぬ品
幸福の時より喪失の時
やらぬ益よりやる無益
割れぬ物より割れる物
見せつける色より滲み出る艶
透きとおる青より踏まれた青
確かなものより不確かなもの
奇怪な文章1
「Bでしょうね。ただ分からないことが一つあります。私は一本の道を辿ってきたはずです。そして、それを真っ直ぐに進んで行った。なのに、来た道が分からなくなった。私は道を間違えたんですか?間違えたならば、今の私はどこにいるのでしょう?はは、初めから何処にもいなかったんじゃないですか、私って。ははは。道を間違えたんじゃなくて、始めから道なんてなかっただけなんじゃないんですかね。浜辺を歩いていると、波が押し寄せてきて、波打ってまた元の場所へ戻っていくじゃないですか。でも、浜辺に残った私の足跡は消えていくんですよ。面白いですよね!!私が居た痕跡がなくなるんですよ!最初から何もなかったように!!これを不条理って言うんじゃないですか!ははは。私が生まれてきたことには理由がないのに、その理由を作ろうとすれば消えていくんですよ!!跡形もなくね!面白いですよね!!ははは。」
もし、涙が人目のつかない所で流されるものであるなら、人が泣いているポートレートは、"人に見せるため"の意図的な行為なのではないか。
もし、泣いている人を美しいと思うならば、それは仮面を外しているからであり、仮面を被っていても、それを美しいと感じるのか。
もし、その涙が偽りであるならば、その欺きに騙され、その涙を受容してあげよう。
悲しさは常に真であるとは言えない。しかし、その理性を超越した感覚こそ、実存に触れえることが可能ではないか。触れるとはそういうものではないのか。
もし、私が小説を書くとするならば、おそらくその小説は、全体を見渡したような、始めから終わりが分かっているようなものではなく、さながら何も分からずに、暗闇の中をただひたすらに進むだけのものとなるだろう。あるいは、それが小説だと思っていたものが、それが単なる現実であり、人生そのものであるのかもしれない。
過去を振り返る度に、ある懐疑が私の中に呼び起こされる。それはつまり、私が過去に経験した全ては、虚構なのではないのか、という懐疑である。喩えるならば、ある文字を凝視し続けると、しだいに文字が解体されて、意味が、音が、そしてその形さえも失われ、始めから「文字」として留まっていたのか(いや、本来のそれは、文字ではなかったのだろう)すらも分からなくなるように…。私の場合、それは記憶にも適応されうる。ある物事について、その細部をよく思い返してみる。しかし、どうだろうか。これは確かだと、思い込んでいたものが時を経るごとに、しだいに薄れ、消え、忘却され───始めから、いや、始めなんてものが───私には、その対象が持つ性質が、それがそれであるための意味が、元は何か別のものであったように思われてならない。いや、そんなことはともかく、記憶は不確かなものだ。ならば、故人への悲哀や常住への憧憬は、全て虚構であったのか。あの時に感じた全てが、本当にあったことなのか。どこまでが不確かで、どこからが確かなのだろう。私が経験した全ては、事実であったに違いない。だのに、あの時の高揚が不確かに思えてならない。私が感じてきたことは、一体、何だったのだろう。