なら、濁った涙も無いといけない。
透明な涙と、濁った涙、どちらが綺麗なんでしょう。
一概に透明な方が綺麗とは言えないと思う。
きっと濁っていた涙のほうが、洗い流すべき悪を流しだしてくれて、
透明な涙は、見た目は汚くは無いけれど、流れ出る涙に出ていくべき悪は無い訳で。
「ならその涙は何?」
見せかけだけの涙なんでしょうか。
それを見る人達は綺麗な涙に寄って助けに向かうのかなと思うと。
私は濁った涙に不幸を感じずにはいられない。
涙の真意がとれるのはどちらなんでしょうか。
「透明な涙」
届いただろうか、いつか送った手紙のことを思う。
送ってから幾月たっただろう。君からの返事はいよいよ無かったけれど、それでも良かったなと思っているよ。もし、返事を貰ってしまった時は、また君と文字を交わせるだろうと期待してしまっていただろうから。君からの返事がないとゆうことはきっと、
「僕は少し乱暴で、ぶきっちょで不甲斐ない人だったと思う。」
君は言葉のない言葉を僕に幾月時間をかけて与えてくれたのだから。
変わるきっかけをくれたのだから。それだけで、君は恩人だったよ。今までありがとう。
「あなたのもとへ」
※たまたま前日書いたお題と繋がっています。
「優しすぎて書けないや...僕が似合う人になった時、
なんでもない日、静かに送るからね。」
机上散らかった便箋と自由に放られた万年筆を置き去りにして、部屋を後にする。雪解けが待ち遠しい。
「そっと」
ウユニ塩湖に行きたい。
そこは、゛まだ見ぬ景色゛としては少し弱いかもしれない。
゛まだ見ぬ景色゛なんて壮大さに見合うのはおおよそ
アスリートが勝ち取る頂、恋人と居る何気ない一瞬とゆうこの時、この瞬間にしかない景色のことだと、解釈されると思う。
でも、私はウユニ塩湖にそれを感じてる。そこに行けば
゛透き通る゛気がしている。
「透き通りたい。」
いくつもの困難に視界を阻まれ、責任、立場、に自身を追いやられ、淀んでしまった21年とゆう歳月を透き通らせてしまいたい。
その時どんなに、心が軽くなるか、身が軽くなるか、濁りきった頭の中を風が通り過ぎる瞬間はどれほど冴えるのか知りたい。
幼少期から持病があり。知見の少ない私は18歳の時、初めて現実にある場所なんだと知った、大して綺麗に映らないとゆうことを聞いたこともあるが、想像だけが膨らみ続ける。
「いつか行ってみたい。」「きっと凄まじいぞ。」この場所を思うだけで、私は少し頭の中をスッと風が過ぎるのを感じる。
ほんの少し勇気が出る。
行きたい場所と聞かれれば、死ぬまできっとここだろう。
「まだ見ぬ景色」
いつも同じ時間に鳴るアラームにうるさく起こされる今日、珍しく夢を見た。自分の人生を追体験する夢だった。その夢では、自分の意思が自由に反映され、さながら人生のデバッグモードの様だった。何もかも自由自在、何不自由ない世界、変えたかった未来、失いたくなかった過去。何もかも意のままだった。
「(あんな夢ならもう一度みたい)」
そう思いながら、不自由、不完全で退屈な1日を今日も生きる。
「(何のために生きるのか)」
なんて問いに、何も無い私が答えるための唯一の回答。
「夢の為。」
「あの夢のつづきを」