君に会いたくて。
甘い言葉に騙される人の多いこと。
本当に心からそう思っていても、言葉にするのは難しい。大切な言葉は簡単に口にできないもので、簡単に口にしてはいけないものだ。耳障りのいい言葉ほどその使い方には気をつけるべきだ。
そして、目を向けるのは言葉より態度の方。
己の心を守れるのは己だけだ。
言葉に騙されて傷つかないように。
どうか、お幸せに。
木枯らしが、木の枝から紅く色付いた葉をさらって行く。
鋭く、冷たく、吹きすさぶ風は、まるで近づくものを全て拒絶するかのよう。
自然の理は、人の心を動かし、またその心を露わにする。
たとえば、この厳しい風のように、突然誰かにら攻撃されることもあれば、己が他人を拒絶することもある。
自然はいつだって理不尽に私たちに試練を与える。
けれど、私たちは自然を愛している。この冬の寒さに震え耐えながらも、暖かい家、暖かい衣、温かい食事を堪能し、季節をその身で感じることを慈しむ。そして春を待ち侘びる。
それなのに、誰もこの理不尽な世界を愛しはしない。
時に怒り、憎み、恨み、そして、呪う。
そのような暗い言葉を口にする者はたちまち気味悪がられ、異端とされ、排除されるだろう。目の前にそんな人間が現れれば、誰だって目を背ける。己に害を成すものから遠ざかるのは、人間の本能なのだから。
けれど、それは他人事では無い。
誰もが呪いを吐きながら、呪いを吐くものを嫌煙している。そのようなことはないと綺麗事を吐く人間は嘘つきだ。もし本当にいるのだとしたら、裸で木枯らしに吹かれているようなもの。すぐに淘汰されるだろう。
そして人は他人がそうであることを望んでいる。
己が呪いを吐くことなく、呪いを嫌煙しない人間であると信じている。
人は寒さを呪い、拒絶する。
けれど木枯らしに情緒を感じるだろう。
人は人を呪い、拒絶する。
そして情緒を殺すだろう。
誰にも呪われず、誰も呪わないように、己の心を殺すだろう。
ああ、なんて、寂しいこと。
それが美しくもあり、恐ろしくもあり、
そして、悲しいこと。
美しい、とため息を吐くのは、心が豊かな証拠。
美しい、と思えない時、心が疲れている証拠。
なら、心が疲れている時は、美しいものを探せばいい。
とはいえ疲れている時は全てのものが色褪せる。
周りの人間が美しいというものが、美しいと思えない時、それはきっと絶望なのかもしれない。
でも、心配しないで。
美しいものを見たいと思えるなら、その心はまだ生きている。その目や耳は、美しいものに触れたいと望んでいる。
どこを探せばいいかわからなければ、まずは空を見上げて。
高層ビルや電柱や電線のような、邪魔が居ない空を探して。
なにもない青い空。ふわふわの白い雲も流れているかも。雨上がりなら虹も出る。
ただ、太陽は見てはダメ。眩しすぎて目を焼かれてしまうから。
空を探して高い場所に行く時は、落ちないように気をつけて。心が疲れている時は、きっと空を飛びたくなってしまうから。けど、人間は空を飛べない。ちゃんと地に足を付けて、空を見上げて。
夕方になれば、空はまた表情を変える。オレンジ、赤、紫、青。そのグラデーションはきっと誰もが美しいと感じたことがあるもの。山や雲が太陽の光を柔らかく受け止めると、その輪郭が光る。そこで私たちは、つかの間太陽が作り出す不可思議な境目に目を向けることを許される。
夜は満点の星空。一番星を探して。
ぽっかりと浮かぶ月を探して。
見えない時は、また明日。
いつだって探しにいける。
空は必ずそこにある。
それが美しいものなのだと心に刻んで。
空だけじゃない。この世には美しいものが溢れている。
いつもそこにあって、いつでも確かめられる。
その時、零れたため息は、
きっと美しいという感嘆のため息。
この世界は、理不尽でできている。
そんな世界で生きるのは、くるしくて、つらくて、
だからこそ、温かさを感じる。
この世界が理不尽でなければ、もしかしたら人に心は生まれなかったかもしれない。