鳥のように
大空翔けて飛んだりすれば鳥のよう。
それじゃぁニワトリ、鳥じゃないみたい。
みんながみんなできること。
普通はみんなできること。
大空高く飛んでみて。
ニワトリ、そんなのできやしない。
普通って言葉は、普通じゃないとセットの言葉。
そうじゃなきゃ、普通なんて言葉はいらないよ。
そうじゃないがあるから普通を普通って呼ぶんだね。
みんなとおんなじようにできなくて。
普通のようにできなくて。
それでも鳥って呼んでいい。
飛べなくたっていいんだよ。
さよならを言う前に
いつかの別れ。
これで最期の命の別れ。
最期だったときに立ち会えたなら、本当のさよならを言えるかもしれない。
これがもう最後だと、今生の別れだと覚悟したなら、本当のさよならを言えるかもしれない。
けど、どうだろう。
最後のときを人は知らない。
あれが最後だったとは後になって言えるけど、それはどちらかが最期を迎えたときにしかわからない。
じゃあね。と言ったそのときが一生のお別れだったなんてわからない。
あの日に会ったそのときが、最後だったなんて誰にもわからない。
一期一会。
だから、これが最後かもしれないねってさよならを言った方がいいだろうか。
「また会う日が訪れる。」
そんなことも期待してもいいんじゃないか。
さよならを言う前に、「またね。」と一言添えたいね。
空模様
雨が降りそうな空を見て、地上の人は、今日は傘を持って行こう、と思う。
空はとっても遠く、手の届かないところにある。
地上の人は、ただ、空のご機嫌を窺うことしかできない。
地上の人は、空に手の届かないことを知り、空模様をただ見守る。
地上の人は、手の届かないと認めたものは眺めて過ごす。
それを変えてやろうなどとは思いもよらない。
手の届かないもの、手の届くもの。
空はとっても遠いから、手が届かないとわかるけれど、そんなに遠くないものは、地上の人はどうやってそれを見分けるだろうか。
海は遠いだろうか。
街は遠いだろうか。
人は遠いだろうか。
それとも思いもよらず近いだろうか。
手の届くはずのものを、まるで遠く空模様を眺めるように見たり、遠く手の届かないものを、地上の人は近いと信じて、無理に手を伸ばしたりしないだろうか。
手の届かないもの、手の届くもの。
それを見分ける知恵が欲しい。
鏡
鏡に映った自分の瞳には、鏡が映っている。
鏡は、それを視る自分を映し出すが、自分の瞳は何を映すだろうか。
人は視たものを脳裏に焼き付けるが、意外にも自分の瞳に映っているそれ自体を観ることがない。
人が観ているのは、鏡越しの世界と変わらない。
なぜなら、人は眼と心のフィルターを通して、認識を観察するに過ぎず、本当のモノの姿を認識することは叶わないからだ。
鏡の世界は、本当の世界とは別のモノ。
私が観たモノは、本当の世界とは別のモノ。
鏡の世界は、とても良くできているが、鏡の向こうにそんな世界が本当はないってことは理解っている。
だけど、瞳を通して観た世界には疑問を持たなかったりする。
本当の世界はどんなだろうか。
ハッと気付いたとき、自分が観てた世界が、鏡越しの世界だったことに驚く。いつも本当の世界はフィルターの向こう側だ。
自分が思った世界とは違う世界が広がっている。
いつまでも捨てられないもの
あの日、自分に負けたこと。
そうでない自分を得るために、負けた自分を捨てないといけないように思う。
けれど、負けた自分は自分そのもののような気もする。そんなふうに感じてしまうと、自分が自分を捨てるだなんて、客体と主体がこんがらがってしまって思うようにいかない。
捨てるというのは、能動的な行為で、葛藤が伴う。
葛藤の中、自分と喧嘩して、でもやっぱり逃げ帰ってしまう。だから捨てられない。
ものは失くすというのは、受動的だから似てるようで捨てるのとは全く違う。
捨てられなかったものを失くしてしまえたなら、楽なのになと思う。
失くしたことも気付かないようなら、自然と手放すことはできるかもしれない。そんな期待は甘いだろうか。
もし、なおも自分から捨てることができるとすれば、それは「あぁ、手を離したっていいんだ」と思えたとき。つまり、力が抜けて手放せたときかもしれない。
捨てられないと思った自分を、手放してあげたなら、自分と和解した自分は軽やかに動きだすだろうか。それを許しと呼ぶのかもしれない。