・6『いつまでも捨てられないもの』
この先このまま平穏に過ごせたらいいと思っていること
結婚したいとか子供が欲しいとか
成し遂げたいことがあるとか
そんなものはなくて
ただ死ねず
世を捨てて生きたい、という思いだけは捨てられず
色んな想いが一瞬にして駆け巡ったが
そのどれも口の端から漏れることなく
「ありがとうございます……いや、ほんとつまんない男です」
とだけ答えた。
ピアノマンの名前をまだ聞いてない
まあいいか
「今度メシでもいきません?」
「飲みましょ」
【終わり】
・5『誇らしさ』
「初めてピアノを弾いてるのを見た時、オッサンかと思いました」
「こっちに越してきたばっかりの時かな、頭もヒゲもなんもしてなかったっす」
彼は俺より全然若かった。こっちが地元で一度は上京したけど馴染めず戻ってきたこと、今は子供にピアノを教えていることなどを話してくれた。
でお兄さんは?何してる人ですか
「俺は全然……普通のリーマンでつまらない男ですよ」
と答えた。
彼は「つまんなくなんかないですよ」と言いこちらをハッキリと見た。暗くて表情はよく見えない。が、なぜか
あなたは自分を誇っていいんだ、とでも言っているような気がした。
【続く】
・4『夜の海』
時々は海を眺めに来る。自宅から20分ほど歩けば海岸だからだ。特に理由はない。たいていは夜だ。
自販機で飲み物を買おうとすると先客がいた。
自販機の明かりに照らされていたのはあのピアノ弾きの彼だ。
向こうから先に気がつき「あ!?どうもコンバンワ!」
と声をかけられた。咄嗟に「お、おゎ〜」気の抜けた返事をしてしまい「こんばんはー」と言い直した。
「おにーさん、よく来るんですかココ」
「そっすねー」
「夜の海もいいっすよねー」
俺はこのピアノマンの事を知らない。今なら少し聞いてもいいんだろうか?
【続く】
・3『自転車に乗って』
それからも度々ストリートピアノの男性を見かけるようになった。この近くに引っ越してきたのかもしれない。
帰宅時間に彼が弾いている時は必ず足を止め最後まで聴いて拍手を送った。
そんなことが数ヶ月続きなんとなく「あ、いつもどうも」「こちらこそ素敵な演奏をいつもありがとうございます」
くらいの挨拶をするようになった。
ある日、出勤時に自転車に乗った彼に「オニイサン!おはようございます!」と後ろから声をかけられた。「おぁ~どうも〜」と返した。焦った。ビビった。
なんだか上機嫌な彼はサーっとそのまま通り過ぎて行った。
【続く】
・2『心の健康』
それからしばらく経ってまたあの男性がストリートピアノを弾いているのに遭遇した。
演奏が終わって立ち上がるまで聴いた。10分もなかったと思うが聴いている間は仕事の事も忘れて聴き入る事ができた。良い音楽というのは音質の事じゃなく気持ちを何処かへ連れてってくれるんだな。
ギャラリーがまばらにいる中お辞儀している彼に拍手を送った。
良かったです。って声をかけようと思ったが、なんだかためらわれた。
【続く】