お題『それでいい』
「それでいい。それでいいんだ」
「父さん……?」
そう言った父は血の海に沈んでいた。思わずかけよった自分の頭をそっと撫でる。
黒い髪が赤い液体で湿った。
自分は殺し屋だった。毎夜依頼に従う、血も涙もない人だ。そのはずなのに。なんで。
「父さん、父さん!」
殺し屋として培った技術を忘れ、声を荒げて父を揺さぶる。銃を落としたような気もするが、今は如何でも良かった。
父は自分が殺し屋だ、なんてことを知らない。いや、知らないと思っていた。まさか父に庇われるなんて夢にも思わなかった。
「お前は、日の光の下の方が似合うよ。だから、それでいいんだ」
痛いはずなのに。苦しいはずなのに。自分の頭を撫でる手は優しくて。笑顔が眩しくて。
こんなはずじゃなかった。赤色に透明な液体が溢れる。
父を殺した人について考えるのは後でもいい。ただ、今はすっかり冷たくなった父のすぐそばにいたかった。それだけだ。
お題『1つだけ』
もしも、1つだけ願いが叶うとしたら人々は何を願うのだろう。
金、永遠の命、美貌。それ以外にもあるだろう。
そう、これは単なる暇つぶし。神である自分にとって人の願いなど矮小でつまらない。ただ、暇で仕方がなかった自分には丁度良い。蟻の行列を何も考えないで眺めるのとさして変わらない。
そんなことでしかなかった。だが、自分にとってはそれくらいでも人はそう思わなかったようだった。
隣国を滅ぼしてほしいと願った者がいた。
愛する人を救ってほしいと願った者がいた。
神に自分自身がなると言った者がいた。
何も願うことなどないと言った者がいた。
人は思っていたよりも少しだけ面白かった。ただ、それだけの話。
お題『大切なもの』
いつも何かを忘れているような気がしていた。例えるなら朝起きて夢の内容を忘れてしまっているかのような。
傍から見たら十分満たされていると思われているであろう自分には何かが欠けているのだろうか。
でもそれが何なのか、自分には分からない。子どもも恋人もいないが、昨今では珍しくもなんともない。ならば一体──?
太陽の強い照りっ返しを受けて目を細める。偶々通りがかった公園には子どものはしゃぐ声もしない。蝉が妙にやかましく鳴いているだけだった。
いつもは気にしないはずの風景が少し物哀しく映った。でも、暑さにしか目が向かなかった昨日より少し輝いてみえたような気がした。そんなある火曜日のこと。