【また明日】
また明日ねって手を振って明日になればまた会えると思ってた。
いつもの調子で、好きな事を話して、笑ったり怒ったりして、また明日ねと言う。
ずっと繰り返すと思ってた。
時間は流れるし、時代も変わる。いつの間にか「また明日ね」って言わなくなっていた。もっとちゃんと話せば良かったのかな。このままでいいのかな。時々思い出す。あの頃、必死に何かを頑張ってた。
そんなに生き急ぐ事はないのに。もっとゆっくりすれば良かった。そしたら、また明日って手を振っていたのに。
【心は透明で】
誰かの色ではなく、
自分の色で揺れる。
隠さず、飾らず、
ただ静かに在る。
透明とは、空っぽじゃない。
光を通せる強さ。
【理想のあなた】
私にとって夫は、理想のあなた になる。夫と出会うまで碌な男と付き合ってこなかったから、恋愛なんてそんなに楽じゃないと思っていた。結婚なんかしなくてもいいし、その方が自分には合ってると決めていた。
私の職場の新入職員として入職したのが夫だった。とても大人しくて、今どきの研修医という第一印象だった。一目惚れでもなくタイプでもなかった。その時の私は、仕事もプライベートも同じ分量で忙しかった。友達と飲んだり旅行をしたり、また、碌でもない男と付き合ったり別れたりしていた。
飲み会の帰り、夫のアパートに寄った。
それがきっかけだった。遊びでも良かった。結婚なんて考えてはいなかったし、言葉にはしなかったけど、あえて結婚の話しは避けていた。夫は、物静かながら、ちゃんと自分を持っていて主張もする。いろんな事を教えてくれた。それまでの私は季節が変わる事さえ気にとめることもなかった。
夫から結婚を考えていると言われた時、正直、困ったと思った。そうきたかと。
遊びでも良かったのに。夫が私を大切にしてくれているのは分かっていながら、私はそれに答える自信がなかった。私は、女性らしくはないし、気は強いし、言い方もキツイので夫とは正反対だ。もっと、女らしくて大人しい女性の方が夫には向いてると勝手に思っていた。でも、嫌いな訳じゃなかった。むしろ好きになればなるほど、自分じゃダメだと思うようになっていた。
それから、いろいろあって、夫婦になった。揉める事はあっても、あまりケンカはしない。性格は正反対だけど、仲の良い夫婦でいる。時々、不思議に思う。よく結婚したなぁと、、でも、何気ない生活の中で夫と結婚して良かったと心から思う。
だって理想のあなただから。
【別れ】
雨は降っていなかった。
けれど、駅前のロータリーは濡れて見えた。
夜になると、アスファルトはいつも少し寂しそうだ。
「じゃあ、行くね」
そう言ったのは幸だった。
大きなキャリーケースを引きながら、何度も肩を気にして振り返る。昔からそうだった。別に忘れ物なんかないのに、何かを置いてきた気がする人だった。
健は、缶コーヒーを片手に黙っていた。
四十二歳。
若くもない。
だから、泣いたり引き止めたりする年齢ではないと思っていた。
幸とは十八年一緒にいた。
結婚はしなかった。
理由は簡単で、タイミングを逃したまま、ここまで来てしまっただけだった。
最初の頃は、「いつか結婚しよう」と笑っていた。
その“いつか”は、仕事や親の介護や生活費に押されて、少しずつ後回しになった。
気づけば、“今さら”に変わっていた。
「寒いね」
幸が言う。
「そうか?」
「健って、昔からそう。暑いか寒いか、よくわかってない」
少し笑った。
その笑い方を見て、健は胸の奥が痛くなった。
ああ、終わるんだ。
やっと実感した。
別れというのは、大喧嘩のあとに来るとは限らない。
積み重なった沈黙の先に、静かに置かれている事がある。
「着いたら連絡する」
「うん」
「ちゃんとご飯食べなよ」
「子どもじゃないんだから」
「そういうとこ」
また笑う。
でも今度は、少しだけ目が赤かった。
電車がホームへ滑り込む音がした。
幸は小さく息を吐いて、健を見た。
「ねぇ」
「ん?」
「私たち、間違ってたと思う?」
健はすぐに答えられなかった。
若い頃なら、もっと器用に言えたかもしれない。
「そんな事ない」とか、「幸せだった」とか。
でも、十八年という時間は、綺麗な言葉だけでは測れなかった。
楽しかった。
苦しかった。
面倒だった。
安心した。
腹も立った。
それでも、一緒にいた。
それが全部だった。
健は缶コーヒーを見ながら言った。
「……間違ってないよ。」
幸は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
発車ベルが鳴る。
幸は最後に、「じゃあね」と言った。
“またね”ではなかった。
健は、その違いに気づいてしまった。
ドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出す。
幸は窓際で笑っていた。
泣き顔を見せないようにする時、いつもあの顔をする。
電車の灯りが遠ざかっていく。
健は、空になった缶コーヒーを捨てようとして、やめた。
まだ少し温かかったからだ。
駅前の自販機の光だけが、やけに明るかった。
帰れば、部屋には幸のいない生活が待っている。
静かな流し台。
減らないトイレットペーパー。
片方だけのマグカップ。
健はポケットに手を入れたまま歩き出した。
別れは、嫌いだった。
けれど。
失う事でしか、気づけない温度もあるのだと思った。