【別れ】
雨は降っていなかった。
けれど、駅前のロータリーは濡れて見えた。
夜になると、アスファルトはいつも少し寂しそうだ。
「じゃあ、行くね」
そう言ったのは幸だった。
大きなキャリーケースを引きながら、何度も肩を気にして振り返る。昔からそうだった。別に忘れ物なんかないのに、何かを置いてきた気がする人だった。
健は、缶コーヒーを片手に黙っていた。
四十二歳。
若くもない。
だから、泣いたり引き止めたりする年齢ではないと思っていた。
幸とは十八年一緒にいた。
結婚はしなかった。
理由は簡単で、タイミングを逃したまま、ここまで来てしまっただけだった。
最初の頃は、「いつか結婚しよう」と笑っていた。
その“いつか”は、仕事や親の介護や生活費に押されて、少しずつ後回しになった。
気づけば、“今さら”に変わっていた。
「寒いね」
幸が言う。
「そうか?」
「健って、昔からそう。暑いか寒いか、よくわかってない」
少し笑った。
その笑い方を見て、健は胸の奥が痛くなった。
ああ、終わるんだ。
やっと実感した。
別れというのは、大喧嘩のあとに来るとは限らない。
積み重なった沈黙の先に、静かに置かれている事がある。
「着いたら連絡する」
「うん」
「ちゃんとご飯食べなよ」
「子どもじゃないんだから」
「そういうとこ」
また笑う。
でも今度は、少しだけ目が赤かった。
電車がホームへ滑り込む音がした。
幸は小さく息を吐いて、健を見た。
「ねぇ」
「ん?」
「私たち、間違ってたと思う?」
健はすぐに答えられなかった。
若い頃なら、もっと器用に言えたかもしれない。
「そんな事ない」とか、「幸せだった」とか。
でも、十八年という時間は、綺麗な言葉だけでは測れなかった。
楽しかった。
苦しかった。
面倒だった。
安心した。
腹も立った。
それでも、一緒にいた。
それが全部だった。
健は缶コーヒーを見ながら言った。
「……間違ってないよ。」
幸は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
発車ベルが鳴る。
幸は最後に、「じゃあね」と言った。
“またね”ではなかった。
健は、その違いに気づいてしまった。
ドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出す。
幸は窓際で笑っていた。
泣き顔を見せないようにする時、いつもあの顔をする。
電車の灯りが遠ざかっていく。
健は、空になった缶コーヒーを捨てようとして、やめた。
まだ少し温かかったからだ。
駅前の自販機の光だけが、やけに明るかった。
帰れば、部屋には幸のいない生活が待っている。
静かな流し台。
減らないトイレットペーパー。
片方だけのマグカップ。
健はポケットに手を入れたまま歩き出した。
別れは、嫌いだった。
けれど。
失う事でしか、気づけない温度もあるのだと思った。
5/19/2026, 12:10:02 PM