別に何に心動かされてもよかろう。
“what moves your heart ? ”
英語の授業で聞かれたその質問にあたしは思わず呻き声をあげた。6月下旬の4限目、もうすぐお昼ご飯の前の英語の授業。腕に引っ付いてくる机が鬱陶しいし、前髪もベタベタで気分は良くない。
ここを耐えればご飯だからと、うとうとしながらも寝ずに受けていた授業の中でこの質問は不意に現れて私をつついてきた。
この文章を使って隣の席の人とお互いに質問しあってみましょうね。と、英語の教師はなんでもないことのように微笑みながら軽やかにそう指示してきた。
あたしの心はあたしのものなので、定型文のように異性に心動かされる必要などないのだ。別に!
と、心の中で何か言い訳めいたことを唱えてみる。そうだ、別に悪いわけじゃないでしょ!フィギュアに心動かされたっていいでしょ!別にさ!ていうか無神経だ!うら若き学生にそんなセンシティブなことを聞くな!
別に、別にと口をとがらす。あたしはいったい何に言い訳しているのだろう。
あたしの心、のはずなのに。まるで正解があるような気がしてしまう。女性の、10代の、学生、としての?
「あなたの心は何に動かされる?」
と聞かれれば、それは恋愛を想定していると、そう言われてもいないのに勝手にそう思って居心地が悪くなる。右手がなんだかむず痒くなって逃げ出したいような気持ち。すみませんね!あたしはフィギュアが好きなんです!と勝手に謝りたくなる。
……何も悪いことしてないってあたしがいちばん分かってるのに。
向かい合った隣の席の男子が質問文をたどたどしく読み上げて、あたしの目を見る。どうなの?と聞かれているような気分。
そうだよな、なんも悪くないな、と思って息を吸い込む、この後に吐き出す息に乗せる言葉を考える。そうだ、あたしは。
「マイハァト、イズーー」
(My Heart)
イヤホンの中にだけ雨が降る。
イヤホンが好きだ。特にノイズキャンセリングイヤホン。自分を、今ここから連れ去ってくれるから。街にいても学校にいても、海や異国へ連れ去ってくれる。
冬が終わり春になって色めき立つ学生街の最中。慣れない街に越してきて不安げな、でも高揚している新入生のような子達を横目に、イヤホンで耳を塞ぐ。スマホを指で撫でて、目に入った曲を選ぶ。
途端、僕にだけ雨が降る。雨を主題にした最近のお気に入りのアーティストの曲。ボーカルとストリングスの後ろにサーサーと雨の落ちる音が聴こえる。
そこでようやくまともに息を吸えるようになる。雨の中、傘を指したような感覚。この中には誰も入っては来まいという安心感。
水を得た魚のように、身体が楽になって僕はこの春めく学生街の中を歩けるようになるのだ。
(ところにより雨)
あなたの嫌いなところなんて何一つなくて、ひとつだけあげるとすれば僕の前からいなくなるところだ。
私のそれは幼い子のこねる駄々みたいなものだから。
と自分の感性と正義感を、肩を竦めて笑いながらあなたは呟く。そんなことないなどと言う権利は僕の体のどこにもなかった。
そういう自傷的なあなたの心が、キラキラとボロボロになっていくのが僕は一等美しいと思ってしまっているからだ。
日本海側のこちらはまだ寒くて桜は咲かない、木々が静かにこれから花が咲くのを待っている中に梅がちらちらと混ざりこんでいる。
淀んだ曇りの空に冷たい湿度が重たく体にのしかかってくる。
多分、この世にこの人より弱い人も美しい人もいないだろうなと思う。恐らくそんなことは無いと分かっているのに。
目の前で見せるこの人の言葉が振る舞いが僕にそう思わせる。この世界に晒されてボロボロになっていくのを横で見ていたいと思う。
この世界に慣れないで、普通の人間に成らないで。ずっと誰かのために傷付いていて、お願い、おねがい、おねがい。
霧のような小雨が降り始めた、並木沿いを通って帰ろう。
(特別な存在)