懐かしく思うこと
ビー玉、おはじき、かんけり、ゴムとび、ビンのオレンジジュース、薄めのカルピス、夏休み子ども劇場…。
交換日記、自転車の二人乗り、オールナイトニッポン、セイ!ヤング、はじめて飲んだ喫茶店のクリームソーダ…。
それは、懐かしく思うものなのかな(笑)
けれど、私はこの歳になり懐かしく思うことが宝物のように思います。だから年寄りは昔話が好きなのかしら納得。
誰かが言ってたけど、なんかのドラマの台詞だけど、実際の17才は語る想い出がないのよ、まだ、何ものでもないから、想い出話のネタがない〜ぃのよ、そして嬉しそうにとか切なそうにとか、想い出話されるとウザいのね、だけど自分もするようになるのよ、17才には戻れないと分かった時、懐かしく思うことはキラキラしている。
きっとね、懐かしく思うことが嫌いな人や馬鹿にしたり、無かったからと思う人は、語るネタがない17才か、振り返った自分がまだ許せない人なんじゃないかしらね。
自分を愛していれば今が満たされていて幸せだと思えるなら、今に連れてきてくれた全てが愛せるはずだからね、そして17才には戻れないと分かったら、懐かしく思う自分を愛しく思えるわよ、古いアルバムのなかに隠れて想い出がいっぱい、無邪気な笑顔のしたの日付は、はるかなメモリー♪で、卒業写真のあの人は人混みに紛れて変わって行く私を遠くで叱ってくれるから。
懐かしく思うこと持てたらいいね。
令和6年10月30日
心幸
もう一つの物語
もう一つの物語と言えば…
彼女は歌いはじめる。
昨夜眠れずに泣いていたんだろう
彼からの電話待ち続けて…
「いや、待ちなよ、それは、もうひとつの土曜日だよ笑」突っ込みに彼女は返す、「まあ、いい詞だから聞きなよ」
息がつまる 人波に押されて
夕暮れ電車でアパートへ帰る
ただ週末の僅かな時を
つなぎ合わせて君は生きている
もう 彼のことは忘れてしまえよ
まだ君は若く その頬の涙
乾かせる誰かがこの街のどこかで
君のことを待ち続けてる…
そう、待ち続けてる人の為に、出なきゃね外へ、私たちの頃はラジオだったけな、今はSNS人と仮りそめに浅く薄く繋がる無責任な繋がりならあるけど、君の求めているものってそんなものじゃないんじゃない?優しくありたいと言うくせに、みんな違ってそれが良いと聖母マリア様みたいなこと言うくせに、嫌いにしがみついて居眠り出るくらい自分は嫌っているのに毎回毎回追い続けるのは何?そしてこんなの好きな人はアホとか馬鹿とか輩とかって、いい歳した大人が駄々っ子みたいになっちゃうのは何故かしら?そして、それを指摘されれば突然自分は被害者?可笑しいでしょ頭何処かにぶつけた?優しくありたい君が先に独善的な下衆な言葉で馬鹿にしているから馬鹿にされる、君の好きなブーメランよ、他人に差した人差し指は自分に向けなさい、ストーカーはおやめなさい自分の寂しさを吐露して値打ちを落とすだけですよ。
彼女は続けた、私も、若い頃は、沢山間違い嘘もつき傷つけもしました、そうして冷たい雨に打たれ、忘れてしまおうと決心して、追いかけるのをやめました。
そして、そのアパートのドアを閉め
新しいドアを明けました。
雨に濡れた私を見つけてくれた人がいて、
上手く語れない笑えていない私の話を面白がって聞いてくれる人がいました、だから無理にでも笑うことの大切さを知りました、悲しいことが多いから、笑うことの大切さを知りました、
嘘も突き通せば真実になる、覚悟のある嘘は実を孕みます。
好かれてもいない人を追いかけるストーカーになったり、憎しみや嫌いにしがみついて眉間にシワばかり寄せて、同類ばかりとつるんで優しくありたいなんて生半可な言葉で嫌いな人や好かれてもいない人にしがみついて傷つけて傷ついたふりしていないで、もっと自分を大事にしてください、嘘でも強がって好きな嫌いを自ら手放してごらんなさい、きっとそんな君の勇気を見つけてくれる人がいます。
祈っていますよ、君のもうひとつの物語がはじまることを。独居老人でも5080でも大人子供部屋でも心はまだ小学生の大人になれなかった子供のようだから、もうひとつの物語が君のことを待ち続けていることに気づくことからはじめてください(笑)
令和6年10月29日
心幸
暗がり中で
〜はてしない物語の後に〜
バスチャンは虚無との戦いに敗れたのか、アトレーユもその白馬も憂いの沼に生きるモーラもファンタージェンも虚無によりバラバラに破壊されてしまったようだ、沈黙が支配した。子供たちは夢を見なくなった物語を馬鹿にして笑うようになった、バスチャンはそんな中で、ひとり屋根裏部屋で黴臭く分厚い古書を広げ夢想の世界を旅する孤高の少年であった、だから選ばれたアトレーユと旅をしファンタージェンを守り想像する、おわりのはじまりになる少年として、今バスチャンは砕け飛んだファンタージェンがあった場所で虚無に包まれ暗がりの中で涙をふいていた。
遠くに光が見えた、バスチャンは光に吸い寄せられた、どれくらい時間が流れたろうバスチャンは暗がりの向こうに小さな光の塔を見つけた、そして「バスチャン、バスチャン」と名を呼ばれたバスチャンは光の塔へと歩み、そこでファンタージェンの王女幼心の君に出会う、「どうして、僕なんかを選ばれたのです」
「僕はなにも出来ずに、ファンタージェンを虚無に奪われてしまいました」肩を震わすバスチャンに幼心の君は言った、「いいえ、あなたがいるじゃないですか」「誰もが見捨てる、埃のかぶった古書を開き私たちと旅したあなたが」「あなたが、はじまりの子供になってください、どうか私に名を、そこから新しい物語がはじまるのです」バスチャンは幼心の君に母の名を贈った、そこからまた新しい物語がはじまるのです、暗がりの中に誰かが光る名前の種を蒔く種はやがて芽吹き花をつけ実をつけ、その花の名前が広がって行く、物語はそうしてはじまりました。
あなたの物語を描きましょう。
バスチャンはファルコンに乗り、子供のふりをした独居老人と悪魔が住む森に飛び、今まさに虚無と手を結び世界を闇と暴徒と自分本意な多様性とか寄り添うとか優しくありたいとか言いながら実は画一的独裁で、自由な夢想や物語を禁じて魔女狩りのような子供たちをつくろうとする、独裁独居の子供のふりをした老人と悪魔に竜巻を送りました、老人と悪魔はバスチャンが起こした竜巻とファンタージェンの新しい朝の光に吹き飛ばされ十字架の刻印を胸に受け消滅してしまう、その最後の命の瞬きに、バスチャンはまた新しい名を与えました、独居老人の最後の命の光の瞬きは、まだ微かに灯っており、また新しい名を与えられて光はじめるのでした。
子供のふり若者ぶっても分かります、下手な若者言葉身についてません、背中は人生を語り、あなたの歳を伝えます、伝える力がある背中を持ちたいです、その時こそ子供時代は良かったよねと、ファンタージェンは素晴らしかったねと語ってください、私は今こそ語りたいと思います、「大人こそ夢を語れ!」
寂しい独居老人バレバレでは悲しいです、大人は子供のふりは出来ません、拗ねてみても、時間は待ってくれません、扉を開けるのはあなたです。
はてしない物語の後に…
令和6年10月28日
心幸
紅茶の香り
大きな森の大きな木の根元に小さなドアがついたお家がありました。
シマリスの夫婦がその木には住んでいて、その小さなドアの向こうでは、シマリスの奥様が紅茶を入れていました。
柔らかな紅茶の香りが小さな小窓から外に漏れて木立たちがその葉っぱを小窓にのばして深呼吸をしていました。
秋の木立は朱や黄色に色づいて、どんぐりの実も鈴なりのようにつけていました、今年もまた冬の準備の季節です。
奥様はティーカップを持ちながら窓辺に向かい
外を眺めました、木の実を拾いに出掛けた旦那様は、まだ戻らない様子です、そろそろ空が茜色に変わる頃です、奥様は飲み終えたティーカップをテーブルに置くと、小さな木の扉を開けて外に出ました。
ポーチからちょっと背伸びをしながら、奥様は遠くを見つめています、その眼差しの先に奥様は旦那様を見つけました、小さく揺れるその影は徐々に近づきやがて彼だとはっきり分かりました、奥様は背伸びをやめてため息ひとつ、微笑んで揺れるその影に手を振りました。
大きなリュックいっぱいに冬支度の果物やら木の実やら温かい干草やらをつめて、体をゆらし
旦那様の影が近づいて来ます。
やがて、旦那様は待っている奥様のところまで来て 「ただいま」と言い 奥様は「おかえりなさい」と言いました。
お日様の匂いのするリュックをおろし、旦那様は奥様に1輪のピンク色の秋桜を差し出しました、奥様は微笑んで 「綺麗ね、ありがとうお疲れ様」と旦那様に労いの言葉をかけ、二人はその小さなドアの向こうに消えて行きました、
低い夕日が大きな森の小さな二人のお家に差していました。
しばらくすると、また小窓から紅茶の香りがして、二人の笑い声が聞こえていました。
「今夜はパイを焼きましょうね」
明日も好き日でありますように。
a little happy ちょっと嬉しいを集めよう
小さな幸せやがて大きな幸せの物語。
そういう意味よ、分かった?(笑)
令和6年10月27日
心幸
愛の言葉
愛の言葉と言えば
美しい人生よ 限りない喜びを
この胸のときめきを あなたに
二人に死が訪れて
星になる日が来ても
あなたと離れはしない… と、歌い上げる訳だが。
神父様の前で
その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、貧しきと時も、これを愛し
これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を誓いますか?
アーメン
アーメン
アーメン…とはヘブライ語で起源は「信じる」と言う言葉らしい、転じてキリスト教では一般的に、真に、確かに、そうなりますようにの意味らしい、最後のそうなりますようにが真に的を突いているのでしょう、神様の前で愛の言葉を誓い合う二人の日本では3組に1組実にアメリカでは2組に1組が離婚しているそうで、真似しなくても良いのに肩を並べる勢いです。
確かに、結婚に打算はつきものですが、結婚相談所でも、マッチングアプリでも昔懐かしい近所の世話焼きババアが持って来る縁談でも、打算傾向の強い御婦人は、健やかで富める時は良いけれど、悲しくなったり貧しくなったりすれば、敬うことも慰めることも助けることも出来なくなり、愛の言葉何処へやらな訳ですが、実際長い人生悲しみが押し寄せたり、貧しくなったりすることは誰にでもあり、そこを乗り越えるからこそ、真実の愛は見つかるのではないでしょうかね?
はじまりから、打算づくしで、障害は嫌、貧しさも嫌、悲しみも嫌では、本物になれない気がします。
愛のはじまりも終わりもきっと「無」なのだろうと思います、何も知らない何も分からない者同士が出会い育み、求愛がはじまる。しかし、雨に打たれ風が吹き互いに背中合わせで互いの温もりを何時も感じながら、共に戦い共に生きる、そして最後は相手に何も求めない、ただそこに二人あれることに歓を感じることが出来る、100ある甘い愛の言葉より、相手に何も求めず、相手の悲しみ貧しさ痛み荷物を自分のものの様に感じることが出来たなら、人生勝ったも同然の圧勝の素晴らしい神の祝福を受けた幸せが詰まった愛の言葉なのではないだろうか?
言葉を憎むくせに、言葉を連ねるこんなところに、、悲しいね、そんな人がいたなら実に悲しい。他人に差した人差し指は自分に向けろかな、この人の世で生きる限りみんな誰かを傷つけそして誰かをそれでも愛するものなんだ、だから尊く敬うそれが愛するってことだよ、愛に破れた人よ。とかちょっと付け足し(笑)
はじめから、打算づくしで計算高い人生では
本物には出逢えない…そう子供たちには教えたつもり。
それが、愛の言葉だ(笑)
心幸