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6/23/2024, 2:50:33 PM

子供の頃は

1966年生まれの丙午。
だいたい、人生で起きる荒波はこの干支のせいにして生きてゆく丙午の女。

さくらももこは1学年上の先輩で、まるちゃんの親父ひろしは昭和の9年生まれで、うちの父親は昭和の8年生まれで黒柳徹子さんと同学年だから酉年で朝から喧しかった。じいちゃんもばあちゃんも明治生まれだけど友蔵さんやこたけさんより歳下だった…と、まあ「ちびまる」を観ていると子供の頃のことを思い出す人は同年代には少なくないはずだ。

どちらかと言えばまる子タイプじいちゃんばあちゃんが大好きだったのも空想好きな変人気質も似ているなと笑わされる。たまちゃんのような親友がいて、野口さんのような親友もいた。

父方のばあちゃんは、みつやのような駄菓子屋を営んでいて、毎日店前で遊んでいた。

その昔映画が活動写真って言った頃に、ちょとの間女優をやっていたばあちゃんは漁師町のばあちゃんとは違った雰囲気だった。背も高く細くて手足が長く、歳をとっても背筋がしゃんとしていた。

ばあちゃんはとても厳しい人だった。

その駄菓子屋の店前でゴム跳びを、たまちゃんのような親友と、野口さんのような親友としていた頃から数年後父も母も亡くしてしまうので
このばあちゃんに引き取られて暮らす訳だけど、まだ、店前でゴム跳びをしていた子供の頃は、ばあちゃんが焼いてくれるイカ焼きが楽しみで毎日学校が終わると通っていた。

自転車のハンドルにレインボーカラーのリボンをつけて3人で走っていた。

たまちゃんに似た子はお嬢さんで高学年になると遊ばなくなった。

野口さんに似ている子とは、馬が合って高校卒業するまで、寄っちゃーくだらないことを言い合っていた。

友達はレストランのバイトのように入れ替わったが、あの自転車に揃いのリボンをつけて走り回り、駄菓子屋の店前でゴム跳びをし、ばあちゃんの焼いてくれたイカ焼きを食べて、三ツ矢ソーダを飲みながら店の中にあるテレビで夕方にやってくるドラマの再放送を一緒に観て、茜色に染まる空に向かうようにまた自転車を走らせる。

「また、明日ねバイバーイ」と手をふり合った
あの一瞬のような屈託のない子供の頃に持った友達には出会えていないような気がする。

あの、子供の頃は大切な宝物

2024年6月23日

心幸


6/22/2024, 2:17:10 PM

日常

1940年昭和の15年 家庭には冷蔵庫も電子レンジもなく、勿論テレビもない時代。家事は時間と手間がかかり、なのに子供は三人四人兄弟姉妹が普通、女性は家庭に入り家事子育てに明け暮れる日常。

戦時下の暮らしでは、生活のあらゆる面が規制され制限されました。ラジオや新聞などのメディアも映画などの娯楽も戦争戦況軍事高揚目的の内容が多く報道されました。街には戦地での兵隊さんの苦労を思い、街頭には「贅沢は敵だ!」の看板が立てられ貧しさを我慢する清貧こそ尊ばれる日常になり、それが正しさであり正論であり正義でした。

明日を担う子どもたちも戦争という国をあげての殺し合い合法の時代に否応なく巻き込まれます。1938年昭和の13年に始まった学徒動員12歳以上は学校へ通いながら軍事用品に関する作業に従事しました。今ならとんだ児童虐待と言われる行動ですがそれが当時の日常でした。やがて、招集され少年兵は強制的志願の熱望するに丸印をし、特攻兵として突撃するという日常が男の子には待っていました、それが正しさであり正論であり正義でした。

終戦は1945年8月15日今から79年前です。

それから、20年1964年昭和の39年東京でオリンピックがあり、カラーテレビが普及し白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器は、カラーテレビ、クーラー、自家用車の「3C」に変わりました。父親は24時間働き終身雇用は日本の高度成長を支え、ほとんど仕事で家に居なくても地震、雷、火事、オヤジ 親父の存在が大きいことが家庭の日常でした、それが正しさであり正論であり正義でした。

さらに、それから20年1984年昭和の59年バブル夜明け前1985年から空前のバブル全盛期到来「贅沢は敵だ!」から「贅沢は素敵だ!」に日常のスローガンは変わりました。1万円札を振りながらタクシーを止める時代でした。質素倹約清貧は美しいそれが正義の時代から44年間くらいの間の出来事でした。

それから、バブルは弾け不景気は訪れて輝くものは輝きのままにとどまらず3Cも携帯も人工知能も持ったけど何故だか不景気不安な日常がやって来ました。

親や大人は子供を躾たくないから少ない子供に嫌われたくないから、子供を高い高いし過ぎて
社会は子供を下げられなくなりました。そんな子供が大人になった結果ハラスメント社会は到来しました。そしてそんな大人が親になった時
日常は正しさは正論正義はどう変わるのでしょう。

良いことは良いなんてものの100年も経たないうちに変わってしまいます。

最後のギロチン処刑は1977年でした、罪人の首を切り落とすという残酷な処刑方法はそれでも最初は罪人に苦痛が無い処刑方法として考案されたものでした。

罪人が処刑される姿を見物させ民衆は見世物でも観るように歓声をあげ見物した時代からまだ50年経っていませんし、この一見野蛮な行為は、現代のネット晒し私刑と何処か似ていますね、正義ってなんでしょう?

正しさ正論正義なんてものは日常生活と同じに時代立場で変わり続けるものなのです。

それならば、何を信じて生きてればと思うとやはり自分なのではないのかという思いに行き着きます。

移ろい行く正しさや正論や正義に流されない自分という自我と意志なのではないだろうかと思います。

どんな細やかな市井の人の日常であっても 世間に流されないオリジナリティーを持つ人でありたい。

人間我が強いくらいで丁度だ。

移ろい行く日常と言う大河の一滴のような細やかな歴史の中で。


6/21/2024, 3:48:54 PM

   




       好きな色

      パステルカラー
      意外と何時も
      言われるけれど…
      
      柔らかい
      優しい色が好き









2024年6月21日

  心幸
    
    

6/20/2024, 4:19:24 PM

あなたがいたから

それはもう生まれてくるという奇跡から
今生かされているという奇跡まで
何ひとつ私は自分独りでは出来なかった
そうだろうと言い切れる。

そして、重なり合う縁や運や巡り合わせそういったものが、たまたま境界線の綱渡りを心許ない足元を守ってくれていた。

私は、たまたまこの時代この国のこの場所に居たからこそ、人も殺さず殺されず生きているし細やかに凡庸に生きることの出来る奇跡をいただいたことに感謝しなければならない。

あなたがいたから生を受けて
あなたがいたから愛を知り
あなたがいたから寂しさを知り
あなたがいたから悲しみを知り
あなたがいたから幸せを知り
あなたがいたから優しさを知った
あなたがいたから生きて来ることが出来
あなたがいたから生きて行くことが出来る
私の道に居てくれた
全てのあなたに感謝。

そんなあなたに会うために
自分磨き上等
でも、結局 自分磨きも環境が許さなければ
出来はしないことを知らなければならないし
自分磨きと言いながら 落ちが高め狙いの
パートナー探しに化けるなら
結局 自分の幸せを人に委ねていることに
先ず気づかなければならない

あなたがいたから

私は 今ここに立っている

風に向かい 髪を靡かせ
立っている

あなたがいたから

全てのあなたに感謝しかない

あなたに会えて良かった

ありがとう あなた

2024年6月21日

                 心幸






6/19/2024, 4:14:00 PM

相合傘

それは今から50年くらい昔の雨の降る午後の話だ、それは綺麗な相合傘を見た。

春先のまだ冷たい雨の降る日だった。
海辺の村でお葬式があった。
亡くなったのは当時88歳のおばあちゃんだった。50年くらい前だから昭和50年代で、そのおばあちゃんは勿論明治生まれだった。当時の田舎のお葬式は近所の人総出で執り行う、子供も特に親戚でなくても顔見知りであるので招かれる、だいたいは親がお葬式のお手伝いに出ているから。その当時の子供は呑気で、お葬式の終わりに配られるお菓子目当てに隣村の子供まで集まっていたりするが、その日は今にも降り出しそうな空模様で子供の参列は少なかった。お葬式は自宅で執り行われ、それから参列者一同葬式行列を作りお棺を墓場まで運ぶ
先頭は旗を持った子供と鐘を打ちながら歩く、
在所の老人、それに続いて親族、隣組在所の男性がお棺を担ぎ送る人の血を引く人々が続く、88歳のお見送りといえば大往生になるので、お赤飯を炊いて送るのが慣わしであった。

そんな、お葬式も終盤に差し掛かる頃、雨は降り出し霧雨降る中に読経は、あげられ88歳のおばあちゃんの眠る棺は静かに土に還る。朝から穴掘りさんが来て掘られた穴におばあちゃんは静かに沈んで行く、見送る人々が一人ひとり土を被せる、勿論子供もだ、それが昭和の村のお葬式。こうして、順送りに人は死ぬってことを子供は学ぶ、大事な学習の場は日常のあちらこちらに有った。もっと人と人が近くて、年寄りと子供の距離も近かった頃の話だ。

墓穴に沈められるおばあちゃんの棺に抱きついて泣く女性を見た50代くらいの小柄な女性小柄だけど田舎には似つかわしくない派手な女性
女性は葬式場には居たのだろうか?小柄だけど姿を見失うようなタイプではなかった。

突然現れたように、最後の最後雨の降る中に傘も差さずに泣いていた。

聞こえて来た話では、彼女はおばあちゃんの娘さんらしい。村の女たちは冷ややかに囁いた
「親不孝ものほど親の葬式で大泣きする」と
なんとも、パンチの効いた戒めの言葉だと今なら思うが、これには続きもあり「親不孝ものほど親の葬式で大泣きし、自分の親の出所を恥じる罰当たりは恥を曝さぬことばかり考えあざとく動き、捨てられたものは他人の親の葬式話に笑う」これならまだ親不孝ものの方が可愛く思うが、賽の河原の門の前にでも貼ってありそうな文言だ。

当時は意味も朧げに、いったいどんな親不孝をしたのかと、その女性を見つめていた。

おばあちゃんは、早くに旦那さんを亡くし女手一つで、その娘さんを育てたそうだ。仕事は浜であがった魚や海産物を行商に行く、通称「カンカン部隊」缶の中に商品を入れて背負って売り歩く商売だからである。「カンカン部隊」と言う言葉は俗っぽい呼び方で、あまり褒められた呼び方ではない、例外なくその娘さんもその呼び名で揶揄われ傷つき、そして母を自分を嫌って村を出た、依頼そのおばあちゃんは一人暮らしだったと聞いた。

一人暮らしでは、あったが周りに親戚は多く行商のおばあちゃんは有名人で子供たちにも人気があったが、家を出た娘さんとは生前折り合いが悪く、おばあちゃんは「敷居をまたがせない」と言っていたそうだ。今なら毒母とか老害とか言われて裁かれたのだろうかね、ちょっと揶揄われたくらいで被害者に成り切って自分以外を加害者にして泣く娘に「胸を張れ」と言った母親は。

ともあれ、彼女は10代で家を出たきり40年以上帰らなかったそうだ、最後の別れくらいしたらどうだと80過ぎて来たおばあちゃんに言う身内もいたそうだが、おばあちゃんは首を立てには振らなかった…流石は明治の女は一度口に出した言葉は嘘でも守り通す。

そして、白い棺に納まって土に還る時ようやく娘さんは許された。

棺に納まった、おばあちゃんの胸には、おかっぱ頭の娘さんの写真が抱かされていたそうで、それを聞かされたのか否か、娘さんはずっと泣いていた、私はその時大人が子供の様に泣く姿をはじめて見た。

おばあちゃんが土に還って、お葬式が終わった帰り道1番後ろの方に小さな体を小さくして歩く娘さんに傘を差し出す男性を見た。二人並んで歩いていたが、何故だか子供心にも優しく美しい雰囲気が風景に馴染む相合傘だった。

男性の左肩は、随分と雨に濡れていた。

娘さんとその男性は幼馴染で「お前の母ちゃんカンカン部隊」と娘さんを揶揄ったガキ大将だった、その後二人は再婚同士で再婚し娘さんはこの村に帰って来た。

小さな村の小さな初恋の物語

私は、あの日見た相合傘より素敵な相合傘に
未だ出会えていない。それくらい印象深い相合傘であった。


2024年6月19日

心幸


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