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相合傘

それは今から50年くらい昔の雨の降る午後の話だ、それは綺麗な相合傘を見た。

春先のまだ冷たい雨の降る日だった。
海辺の村でお葬式があった。
亡くなったのは当時88歳のおばあちゃんだった。50年くらい前だから昭和50年代で、そのおばあちゃんは勿論明治生まれだった。当時の田舎のお葬式は近所の人総出で執り行う、子供も特に親戚でなくても顔見知りであるので招かれる、だいたいは親がお葬式のお手伝いに出ているから。その当時の子供は呑気で、お葬式の終わりに配られるお菓子目当てに隣村の子供まで集まっていたりするが、その日は今にも降り出しそうな空模様で子供の参列は少なかった。お葬式は自宅で執り行われ、それから参列者一同葬式行列を作りお棺を墓場まで運ぶ
先頭は旗を持った子供と鐘を打ちながら歩く、
在所の老人、それに続いて親族、隣組在所の男性がお棺を担ぎ送る人の血を引く人々が続く、88歳のお見送りといえば大往生になるので、お赤飯を炊いて送るのが慣わしであった。

そんな、お葬式も終盤に差し掛かる頃、雨は降り出し霧雨降る中に読経は、あげられ88歳のおばあちゃんの眠る棺は静かに土に還る。朝から穴掘りさんが来て掘られた穴におばあちゃんは静かに沈んで行く、見送る人々が一人ひとり土を被せる、勿論子供もだ、それが昭和の村のお葬式。こうして、順送りに人は死ぬってことを子供は学ぶ、大事な学習の場は日常のあちらこちらに有った。もっと人と人が近くて、年寄りと子供の距離も近かった頃の話だ。

墓穴に沈められるおばあちゃんの棺に抱きついて泣く女性を見た50代くらいの小柄な女性小柄だけど田舎には似つかわしくない派手な女性
女性は葬式場には居たのだろうか?小柄だけど姿を見失うようなタイプではなかった。

突然現れたように、最後の最後雨の降る中に傘も差さずに泣いていた。

聞こえて来た話では、彼女はおばあちゃんの娘さんらしい。村の女たちは冷ややかに囁いた
「親不孝ものほど親の葬式で大泣きする」と
なんとも、パンチの効いた戒めの言葉だと今なら思うが、これには続きもあり「親不孝ものほど親の葬式で大泣きし、自分の親の出所を恥じる罰当たりは恥を曝さぬことばかり考えあざとく動き、捨てられたものは他人の親の葬式話に笑う」これならまだ親不孝ものの方が可愛く思うが、賽の河原の門の前にでも貼ってありそうな文言だ。

当時は意味も朧げに、いったいどんな親不孝をしたのかと、その女性を見つめていた。

おばあちゃんは、早くに旦那さんを亡くし女手一つで、その娘さんを育てたそうだ。仕事は浜であがった魚や海産物を行商に行く、通称「カンカン部隊」缶の中に商品を入れて背負って売り歩く商売だからである。「カンカン部隊」と言う言葉は俗っぽい呼び方で、あまり褒められた呼び方ではない、例外なくその娘さんもその呼び名で揶揄われ傷つき、そして母を自分を嫌って村を出た、依頼そのおばあちゃんは一人暮らしだったと聞いた。

一人暮らしでは、あったが周りに親戚は多く行商のおばあちゃんは有名人で子供たちにも人気があったが、家を出た娘さんとは生前折り合いが悪く、おばあちゃんは「敷居をまたがせない」と言っていたそうだ。今なら毒母とか老害とか言われて裁かれたのだろうかね、ちょっと揶揄われたくらいで被害者に成り切って自分以外を加害者にして泣く娘に「胸を張れ」と言った母親は。

ともあれ、彼女は10代で家を出たきり40年以上帰らなかったそうだ、最後の別れくらいしたらどうだと80過ぎて来たおばあちゃんに言う身内もいたそうだが、おばあちゃんは首を立てには振らなかった…流石は明治の女は一度口に出した言葉は嘘でも守り通す。

そして、白い棺に納まって土に還る時ようやく娘さんは許された。

棺に納まった、おばあちゃんの胸には、おかっぱ頭の娘さんの写真が抱かされていたそうで、それを聞かされたのか否か、娘さんはずっと泣いていた、私はその時大人が子供の様に泣く姿をはじめて見た。

おばあちゃんが土に還って、お葬式が終わった帰り道1番後ろの方に小さな体を小さくして歩く娘さんに傘を差し出す男性を見た。二人並んで歩いていたが、何故だか子供心にも優しく美しい雰囲気が風景に馴染む相合傘だった。

男性の左肩は、随分と雨に濡れていた。

娘さんとその男性は幼馴染で「お前の母ちゃんカンカン部隊」と娘さんを揶揄ったガキ大将だった、その後二人は再婚同士で再婚し娘さんはこの村に帰って来た。

小さな村の小さな初恋の物語

私は、あの日見た相合傘より素敵な相合傘に
未だ出会えていない。それくらい印象深い相合傘であった。


2024年6月19日

心幸


6/19/2024, 4:14:00 PM