それは、あまりに芳しく麗しい徒花。
どれ程に甘美で、目眩がする程に蠱惑的で、溺れる程に心を奪い去るもので、どれ程に極上の美酒よりも酔わせるものであって。そしてなにより、どこまでも無意味で無価値で実りない咎。それらはきっと、存在してはならないもの。
犯した罪の名を、人は『恋』だと色づける。まるで蜜の滴る果実の如き、堕落と退廃の甘やかな罪科であるのだと。けれど同時に、人が人として持ちうる至極当然の、そしてそれ故に何よりも尊い感情であると。まるでなにか崇高なものであると、そんな夢物語を無責任に告げている。
例えばそれは、愛おしく思う相手を慈しむ心であるのだと。或いはそれは、相手の心を欲してやまない渇望なのだと。或いはそれは、恋した相手を自分だけのものにしたいと願う独占欲なのだと。
罪の味が蜜の味であるなどと、なんと虫唾の走る言だろう。そんな幻想を美しいと嘯くなど、なんと欺瞞に満ちた偽善であるのか。恋に狂うというのなら、それは果たして罪人と何が違うというのだろう。愛欲に澱むというのなら、その者の魂は穢れと共に腐り果て、とうに救いようがないではないか。
だというのに、世界はなんと残酷なのか。それこそが『人』の正しき在り方であるのだと、さも常識かのように狂気に満ちた偏見を押しつけてくるのだから。いっそ本当にそうなのかもしれないと、そんな甘ったるい絶望を錯覚させる程に。
とある存在を欲した。
その目を、声を、手のひらの温度を、その心を、その存在の全てを欲した。
けれどそれは、決して手の届かない高嶺の花。此方から触れることなど不可能であり、また叶ったとしても間違っても己ひとりに触れさせてもくれはしないであろう彼の人。例えこの両腕の中に閉じ込めたところで、心が得られる訳もなく。それでもなお求め続けるということは、なんて無駄が多く不毛なことなのだろう。
そもそもなぜ、手に入らないと知っているものを求めてしまうのか。それが叶わぬ想いであると悟ってしまった瞬間に諦めて仕舞えば良い筈なのに。そうすればいつかは傷つくことも忘れることができるだろうに。だというのに、胸に秘める想いは募っていくばかりで一向に癒える気配がない。まるで出口のない迷宮の中を彷徨っているようだ。あぁこれが間違いなく『呪い』でなければ一体なんだというのだろう。
それでも――それが他ならぬ自らの感情であるのならば。
「そんなもの、弔ってしまえばいい」
ああ、そうだ。醜い澱んだものはすべて埋めてしまおう。こんな忌まわしいだけの想いなど葬り捨ててしまった方が良い。土へ埋めて永遠に誰の目にも触れられないように封をして、いつか大地の一部へ成り代わるその日まで。或いはそれらすべて朽ちて形すら無くなってしまうまで。
そうやってすべてなかったことにできれば、きっともう苦しむことはなくなるはずだ。この胸を掻き乱していた感情ごと死んでくれるのなら。ただ虚しさだけが残ろうとも。
そんな浅はかな祈りに身を任せ、筆を執る。
「せめて咲き誇るままに散り失せよ、愚かなる蕾たちよ」
誰の目にも留まらずに落ちていく哀れな花弁どもを、今暫くのほんの刹那だけは愛おしんでやろうと。せめてもの供養だと。一等綺麗な文を謳い上げるように書き記してみせる。
ただ自分のために紡ぐ言葉たちは恐らく、他の誰かにとっては取るに足らないものであろう。けれど、どうせ何処へも行きはしない想いを吐き出すだけなのだ。誰に理解されようとも思わぬのだし、寧ろ不要なものであると拒絶してくれた方が余程有難い。
「──これでお終いだ」
紙上にて踊る文字を見つめながらぽつりと溢れた呟きに応える声はない。しかし何某かの返答を求めたわけではなく、ただ静寂の中で独りごちただけのことだった。
滲まぬ様に数刻の時間を置いて乾かしたそれを端から丁寧に巻いていく。幾重にも紙を重ね合わせて出来上がった丸い塊は歪で不出来であったが別段構いはしなかった。元より完成品を作るのが目的ではなかったのだから。最後にそれを包み込むようにして懐紙覆うと懐中時計を取り出して時間を確認する。
そろそろ頃合いだろう。障子戸を開ければ妙に眩しい月明かりが射し込んでくる。見上げた天には淡く透き通る蒼白い満月が浮かんでいた。夜涼みには丁度良い陽気かもしれない。
「眠れ、二度と目覚めぬように」
波打ち際で、硝子に詰めた宛名のない言葉と小さな花弁にそう囁きかける。
誰に向けての呪いなのか最早分からなくなっていたがそれでも良かった。ただ一つ確かな事はこの想いだけは決して口に出してはいけないという事だ。そうすればきっと誰も傷付かずに済む。
(だからこれは墓標なのだ)
人目に触れない、ひととこに留まらない、いずれ海の藻屑と消え失せるばかりの躯。
海水が入り込んで文字が滲むのが先か、硝子が摩耗し割れるのが先か、或いはただただ広海を宛もなく漂うのやもわからない。いずれにせよ報われぬ運命の紙屑。その行く末をじっと、ただひたすらに夜が明けるまで眺め続けた。
テーマ:【波にさらわれた手紙】
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過ぎたるは及ばざるが如し──
かつて、何処ぞの誰かが言ったその言葉は間違いようもない真理である。
例えば、あまりに強い光は、目を眩ませる。
直視などできるはずもなく、体力を奪い 不調を引き起こし 疎まれる原因になったりもする。どんなに素晴らしく偉大なものであったとしても、過剰であれば毒になりうるのだ。
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テーマ:【眩しくて】
過去は常に現在に上書きされて、いつの日か風化して色褪せては忘れられてゆく。
時折は思い出すこともあるけれど、当時の感情も情景もすべてが思い出として補正されて 消化され消耗されて、そのままの形として残ることはありえない。
辛かった日々すら青春とか良き思い出とか今に繋がる必要だった苦労だとか、そんなお綺麗な言葉で飾り立てられてまるで宝物のように鑑賞される。現在の娯楽へと成り果てる。それが他人であればなおのこと。体のいい嗜好品へ早変わりだ。
(前を向け。俯くな。視界は広く 空を見上げて)
足元を見てはいけない。蒼穹の下で己の周りだけに謎の雫が落ちてくるから。水は蒸発したとしても その痕跡を残してしまうから。だから、上を向け。
ただ、青く果てしなく広い空を。流れる雲を。眩い光と、今にも消えそうな白い月を。その壮大さを、自由さを、輝きを、健気さと気高さを。目に焼きつける。
(美しくあれ。誇り高く清らかに)
己という商品を簡単に浪費させるな。そう言い聞かせて表情を作る。普段通り、いやそれ以上に、魅力的な自分を。
弱さは寄り添える相手にしか見せてはいけない。友情というインスタントなビジネスライクには絶対に。弱い自分自身は心の奥底で揺籃で揺蕩っていればいい。例えその場所が涙の海を作ろうとも、表に出しては生き抜けない。それが、ある種の閉鎖空間的な学びの園のルール。
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テーマ:【涙の跡】
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幼き頃追いかけたあの星は今やもう
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テーマ:星を追いかけて
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テーマ:飛べ