同棲して、一ヶ月が経った。
優しくて声が綺麗な、同い年の女の子。
最近は、俺の話すことをうんうん頷いて聞いてくれて、いつも健気に家で待っていてくれる。満面の笑みで俺と接してくれて、でもたまに物凄く寂しそうな表情を浮かべる。そんなどことなく儚げな雰囲気も含めて、俺は彼女のことを愛している。
彼女は同棲したての頃、俺と同棲することをあまり良く思っていない様子だった。それまで彼女と喧嘩みたいなことをしたことが無かったから、何をすれば彼女の怒りがおさまるか手探りだった。ご飯を食べないくらい拗ねちゃうこともよくあったけど、根気強く口に運んで…途中から口移しなんかもしてあげたりしていたら、少しずつ自分から食べるようになっていった。よかったよかった。これで仲直り。
不安でいっぱいだった毎日が明るく彩られていく。
彼女が愛してるって言ってくれた日。彼女とお菓子を食べた日。彼女が自分から俺に口付けをしてくれた日。
喧嘩をしたところからだったから、スタートした同棲生活。はじまりが悪かった。そのせいで溢れそうだった不安が、ひとつずつ安心へ変わっていく。
仕事を終え家に戻れば、今日も、ベッドの上でちょこんと座って彼女は待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
彼女は俺を視界に入れるやいなや、口角をぐいっと上げて笑う。
前よりもいっそう白くなった肌に、少し細くなった腕。どれをとっても愛しく思えて、彼女の柔い頬に触れた。彼女の背に合わせて屈んであげれば、そのまま、彼女は俺の唇にキスをした。教え込んだおかえりのキス。やっと覚えてくれたみたい。ああ、本当に今日も可愛いね。
「今日からここが、君の家だよ。ふたり暮らし。君のための部屋も作ったんだ。君も嬉しいでしょ?」
「なんにも言わないで連れてきたことは謝るよ。でもそろそろ機嫌なおしてよ…なんでそんな、怯えた顔すんの」
「ねえ、ご飯食べないとしんじゃうから、食べて……食べろって!」
「自分で食べるんじゃなくて俺に食べさせて欲しかったのかな?…気づいてあげられなくてごめん。口開けて、すぐ流し込んであげるから」
「俺君の声大好きなんだ。だからほら、その可愛い声で俺に愛してるって言って」
「見て!君の好きなマドレーヌだよ。買ってきたんだ、一緒に食べよう。…?……君の好きなものなんだから知ってて当然でしょ?」
「君から俺にちゅってしてくれたら…明日一緒にお散歩でもしてあげる。ひさしぶりにお外出たいでしょ?ね?できるよね?」
……
「安心と不安」
「大丈夫ですか?」
中学生時代、後ろ指をさされ笑われる俺のことを助けてくれた、唯一の存在。
その時も、いつもみたいにいじめを受けていた。誰もが見て見ぬふりをし、嘲笑う中で、彼女だけが俺に手を差し伸べてくれた。そんな彼女は飄々としていて、周りの人たちは呆気に取られたような顔を浮かべていたことを覚えている。
少し籠ったような高い声。
いじめっ子たちにメガネを取られていたからというのもあるけど、何よりも眩い逆光に照らされていたから、ぼやけた輪郭しか視認できなかった。
名前も学年も、顔すら知らない人。逆光にぼんやり縁取られた輪郭とあの声だけが、俺の記憶に色濃く残っている。
俺はあの時、恋に落ちた。
恋人のいる奴らは、浮気だの束縛だのよくほざいていた。一時の昂り、いつか消えてしまうそんな恋情に踊らされて、支配欲が湧くなんて馬鹿馬鹿しいと思う。そう思っていた。
奴らの感情を理解出来てしまう状況がくるなんて夢にも思わなかった。
支配欲。独占欲。依存。劣情。背徳感。高揚感。
今や彼女を想わない日はない。彼女のことを、何も知らないくせに。感情だけが一人歩き。
この虚しさを埋めるために…俺は彼女のストーカーになった。
我などとうに忘れ、自制心も失われた。そんな俺にはもう、彼女のあとをつけるくらいしか、それしか生き甲斐が。
天誅だろうか。程なくして彼女は、どこかも分からない遠い遠い場所へ、引っ越してしまったのだ。
……
「お疲れ様です」
同僚に挨拶をして職場の裏口のドアを開ければ、少しひんやりとした風が髪を靡かせた。
夏といえど八時近くにもなれば、街頭を頼りに歩きだす程の薄暗さに街は包まれる。スマホをバッグに仕舞い込み帰路につく。
今日は気配、感じないな。
気のせいであって欲しいが、一ヶ月程前から、夜道を歩く度に毎回、背後に視線を感じるのだ。もともと幽霊とかそっち系が苦手だから過敏になっているだけかもしれないと当初は思った。今もそう思いたかったが、一ヶ月もその状態が続けばさすがに、私をつけている存在がいるかもしれない、ということを危惧する。足早に大通りを抜け、住宅街の路地に入る。
「やっぱ、お母さんに迎えに来てもらえば良かったかも……」
以前、このことを相談した時から、母は「仕事送ってってあげようか?」と頻りに聞いてくれる。その度、心底心配そうな表情を浮かべる母に迷惑をかけたくなくて、「大丈夫だよ!」と無理矢理に笑顔を繕って答えた。
今日はまだ、いつものようなあの気味悪い視線は感じない。少しほっとした。
中学生の頃からここに引っ越してきて、大体十年が経ったからか慣れたこの風景。この先の通りを左に曲がってそこを真っ直ぐ行けば、突き当たりが私の家だ。歩く速度を速める。ピンヒールをかつかつ鳴らしながら、このまま何も起きませんように、とバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
左に曲がる。立ち並ぶ家々に、沈みかけた太陽の光が滲んでいる。家はもうすぐ。
その時。少し遠くに誰かが立っていた。背は高く、恐らく男の人の影だ。彼は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、俯いている。もしかして、もしかしない、よね…?
一歩一歩、歩みを進める。
大丈夫、絶対大丈夫と自分に言い聞かせる。
あっという間にその人の目の前だ。横を通り過ぎようとした時、その男の人は、ゆっくりと顔を上げた。
妙な既視感を覚える。なんか、どっかで見た事あるような……。
「ふふ」
彼は、気味の悪い声で笑う。全身が粟立つ。一瞬にしてわかってしまった。
「え、あ、す…すと…」
絶対逃げ切れると自信をもって歩いていた。それがどうだ。地面に尻餅をついて、冷や汗をだらだらかいて、男の人を見上げるだけ。呂律も上手く回らず、涙を必死に堪えるだけだ。無力。頭の中では逃げろと警鐘が鳴っているのに、体が鉛のようで、思うように動かない。
「みつけた」
そう呟いて、私をしっかり見つめる彼。手が私に向かって伸びてくる。幸せそうに、でもどこか寂しそうな笑い声をあげるその男の人の顔は、逆光に照らされていて、うまく認識できなかった。あ、待って、さわらないで、やめ
「逆光」
こんな夢を見た。
太陽がさんさん照って、あっつくて、汗びっしょびしょになりながら友達とだべって、アイス食べてた。こんなに暑いのに、外で友達みんなと一緒にお喋りして。これはまるで魔法みたいで、あっという間にアイスも食べ終わっちゃってた。
部活終わり。昼下がり。夏のこの時間帯が何気にいちばん好きな気もする。
友達とそのまま遊び行くとか迷ったけど、シャワー浴びたくてね。家に帰った。
玄関のドアを開ければ全身を撫でた冷気に、あ、お母さん、エアコンつけてから仕事行ってくれたんだなあって思った。
身体中の汗を流して、風呂をあがれば、独特の空気感が身を包んだ。髪の毛の水気をある程度切って、体ひとつ分まるまる覆うくらい大きいバスタオルを巻く。中学校時代の体操服の短パンを履いて、一昨年使っていたクラスTに袖を通す。三年間使い古したおかげで程よく体に馴染んだ短パン、そして、1-Bと書かれたクラスTは、動きやすくてお気に入りなの。
鼻歌交じりにドライヤーをコンセントにセットして、温風をかける。まだ湿ったセミロングが靡く姿を鏡越しに見ていた。スマホ片手にドライヤーをかけていれば、友達から「三時集合ね」のメッセージ。市営プールに行く約束の話だ。慣れた手つきで「了解!」と打てば、洗面台の傍らにスマホを置いて、髪を乾かすことに専念した。
時刻は二時。まだ家を出るには早かったから、リビングでスマホを弄っていた。ソファに寝そべって、ごろごろ。ちょっと、うとうとする。
なんだか、気配を感じた。ウチは玄関扉の横に磨りガラスの窓があるおうちなんだけどさ、そこで揺らめく影が見えたの。なんだか、その影に見覚えがあった。
宮川けい。近所にある孤児院のような施設出身の、四つ上の男の子。年端もいかないうちはふたりで遊んだり、他の子も混じえて遊んでたりした。まあ所謂、幼馴染だ。つんつんしてて素直じゃないけど、根はとても優しい人だった。年が上がるにつれて…私が中学生になってすぐくらいだったかな、二人してあまり顔合わせ無くなっちゃって、それから彼はどこかに行ってしまったけど。
…………本当は好きだった。彼のことが。好きだったと言うより今も好きだ。かっこよくて、ぶっきらぼうな言い方するけどでも言葉の端々に優しさが滲んでいて。大好きだった。
そんな彼のような影が…、というより、彼の影だ。彼の面影が数メートル先に見えている。よく目立つ金髪のツンツンヘアー。ポケットに乱雑に手を突っ込んでいるが、それも彼の癖だった。
朧気に映る影が、この上なく愛おしい。儚げで、すぐに消えてしまいそうな気がした。影が動く。去ってしまいそうな様子。居なくなってしまいそうな、もう二度と会えないような気がした。
会いたかったよ、会いたかった。どこにいたの、ほんとにさ、連絡先のひとつでも聞いとけばよかったよ。会いたかったんだよ待って。
靴も履かずに、裸足のまま駆け出す。陽の光に晒された地面は当たり前にあつい。外と家の中とで温度が違うせいで外に出た瞬間に感じた、もわっとした生ぬるさが体に浸透していく。それも気にならなかった。少し遠くに見えた彼の背。やっぱり彼だ、けいちゃんだ。少し大きくなった背、私はそっと抱きついた。
「けいちゃん」
昔はよく抱きついたりしていた。大好きだから〜なんて言って。今ではもう前のような可愛らしい理由じゃきかない。だってこうやって会話を交わすには久しぶりすぎる。私、来年から大学生なのに。彼なんてもう、成人しているのに。けれども、彼にどう思われようと、離してはいけない気がしたの。
彼は何も言わない。でも振り払わないということは、拒絶の意は彼にはない。少しの安堵と、やっぱりあの頃のガキンチョと寸分も変わらないだとか思われてるのかなっていう少しの不安と、やっぱり女とは思われていないのかなって悔しさを感じた。
無音の時がしばらく続く。彼の背にまわされた私の腕に、肌に、そっとなにかが触れたような気がした。あたたかい。外気温は高く窮屈さを感じる。そこに更に加わったあつさのはずなのに、嫌では無いあたたかさ。彼の手だった。その手は少し汗ばんでいて、そこにけいちゃんが居るんだという事実を実感させる。けいちゃんは、彼の根がそうであるように、まるで壊れ物でも扱うかのように、優しく、私の腕に触れていた。
「おう」
あの頃より少し低くなった声が聞こえた。相変わらずぶっきらぼうで、乱暴な感じの言い方だけど、やはり端々に優しさが溢れていた。思いが溢れる。止まらない、多分止められない。
「けいちゃん……私、けいちゃんの事ね、」
だいすき。
目を覚ます。寝てしまっていたみたい。寝惚け眼で手元のスマホを開けば、時刻は午後二時半。あれ、いつから寝てたんだろ……。
メッセージアプリの通知が届く。プールの約束をしていた友達からだった。あーそうだ、そうだった、あー…もう、こんな時間か……。
まだ開ききっていない目を擦り、重い体を起こす。ほんのちょっと頭がくらくらした。
…あーあ…夢じゃなくて本当に会えたならどれほど……。
うーん、だめだめ。どこにいるかも今じゃ分からない初恋の人を想う気持ちはさっさと胸の奥に秘めて、とにかく友達との予定を、楽しまなきゃ。頭をぽりぽり搔いて、着替えをしに自室に向かう為に立ち上がった。
「こんな夢を見た」