秋という季節は、恋をしたくなる人が増えるのだと言う。年中恋人が欲しいと言っている人達は、どうなんだとツッコミたくなるが、口には出さないでおこう。
現に、僕のクラスメイトは恋愛話で持ちきりだった。彼は、恋人にするには性格に難があり過ぎるとか、彼は顔がいいから性格が悪くても許せるだとか、浮気する人間の例をオールコンプリートしそうな発言ばかりが蔓延っていた。
ところで、女というのはコソコソ話が好きなのだろうか。僕も同じ女だが確実に聴こえているし、何より視線が煩しい。やはり、僕には恋愛事はよくわからないな。
秋恋は、人それぞれ。
お終い
ふと、思ったことがある。過去に起きた出来事を話す大人達に共感を求められた時、私にはその記憶そのものがなかった。ただ、その時の話は私がまだ1・2歳の時の話だったこともあり思い出せなくても何ら不思議ではないと考えていた。けれど、心の何処かで自分がおかしくなっているのではないかという不安は拭えないままだった。
そして、その不安が確信に変わる出来事があった。父が酒を呑んでいて口が緩んだのだろう。昔話を持ち出してきたのだ。父いわくその時の話は私が10歳の時の事らしかった。母も父も妹も弟もその出来事の記憶があるようだった。だけど、この時の私は酷く取り残された気持ちでその話を聞いていた。
なぜなら、私にはその記憶がなかったからだ。この時、私は気づいた。自分が記憶障害を患っていることに。私だけがそこにいない、その事実に絶句する事しかできなかった。
過去の自分を大事にしたい、けれど、そこに私がいない。
お終い
正しさとは刃物だ。それ故に自分も他人も容易に傷つけてしまうものであり、誰かを救済するために使う事は向いていない。けれど、正しさがなければ秩序を保てない。私達が普段から享受している平和は正しさという狂気の上で成り立ってるからだ。
けれど、先程書いたように正しさは誰かを救済するには向いていない。だから、私は他者に優しさを使う。優しさは布であり、正しさである刃物を包む事ができるからだ。
だが、1つ忘れてはいけない事がある。それは刃物は包まれただけで形を失ってはいないという事だ。だから、我々は忘れたくても思い出してしまう。そこには変わらず刃物があるからだ。けれど、貴方達は忘れている、それが何であるのかを。
だから、時間よ止まれ。私達は自分と対話する時間があまりにも少なすぎるのだ。
自分を正しく見れる目を持ち、他者を傷つける覚悟の優しさを持て。
お終い
夜明け前、早起きの者はすでに動き出す時間帯だ。私もその1人で、太陽が顔を出すのを窓ガラスの前で待っていた。まだ、暑い季節だけれどこの時間帯はまだ涼みがある。
だから、皆が動き始める時間帯が好きだ。世界に命を吹き込むように太陽は上り始める。そして、我々に温もりを分けてくれる。
夜明け前、動き出すのは誰だ?
お終い
画鋲が外れてカレンダーが床に落ちる。ドアを開けば、その風圧で簡単に画鋲が外れてカレンダーが落ちては、カレンダーを元の位置に画鋲で固定する。これの繰り返しがもう3ヶ月続いていた。
ならば、新しい位置に画鋲で固定すればいいのではと思うだろう。だが、そう上手くはいかないのだ。なぜなら、このカレンダーは職場の物であり、各々の予定を書き込んだりするもので無闇に動かせば何を言われるか分かったものじゃないのだ。そのため私は、当分このカレンダーに気を向けて行動しなければいけないようだ。
カレンダーに困らせられるなんて思いもしなかった。
お終い