愛があれば何でもできる?
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「愛」は理解できる。種類もわかる。それを取り扱った作品も楽しめる。
なのに「愛」を自分に反映することができない。
自分事になった途端、もう訳がわからない。特に種類が。
家族愛も友愛も恋愛も、ごちゃ混ぜになっている気がする。区別しようとすると、混乱する。
今はまだ、どうしようもないから放ったらかしにしている問題。
きっといつか、答えが見つかる時が来る。
流れ星に願いを
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多分誰もいない、
灯りがなるべく目に入らない場所を探して、
夜露で濡れた芝の上に、
お一人様サイズのレジャーシートを敷く。
その上に寝転がる用のクッションシートを置けば、もう完璧。
お一人様用天体観察特別席の完成だ。
ちょっと寂しいので、
各地の流れ星中継をイヤホン越しに聴きながら、ごろんと特別席に寝転がる。
まだ天の川も見えない。
目が慣れるまで、ぼーっと眺める。
ちょっとずつ星々が見えてきたら、
あとは、見える範囲いっぱいに視野を広げて、動くものに反応するだけ。
あれやこれやと話をする声を聞き流しながら、
ただただ、その一瞬を待つ。
一つ、二つ、三つ、と
タイミングも場所もバラバラに散っていく石ころ達の最期を見届ける。
願い事を唱えることなんて忘れていた。
聞き流している話し声が、願い事の話をしていて、やっと思い出していた。
そういえば、流れ星には願い事を3回唱えるもんだったな、と思い、
どこかで聞いた、おそらくなんだかんだ欲しいものであり、もしかしたら流れ終わる前に言い終える可能性のある願い事を3回唱える。
「かね、かね、かね」
一人、風情が無いなぁと笑ってしまった!
何もいらない
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「 」
My Heart
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心の形は、どんなものだろう
よくハートの形で表現されているけれど、私は器の形をしているのではないかと考える時がある
人それぞれの器があり、そこに各々の感情が注がれているイメージ
壊れにくいプラスチックのコップ
透き通って綺麗な硝子のワイングラス
どっしりとした陶器の湯呑み
細かな意匠が施された金属のスープ皿
一人ひとり、大きさも材料も用途もデザインも違う器
でも、その器はずっと同じでは無くて、年齢や経験によって、柔軟に形を変える
幼少の時は粘土のお皿、思春期にはガラスの花瓶、老年には陶器の植木鉢、
一時期は氷のサラダボウルになるかもしれないし、パズルでできた小物入れになるかも
注がれるものも、きっとそれぞれ
いろんなかたちのビーズに、いろんな香りの花、ふかふかの土に植った壮観な松、
色とりどりな野菜に、いろんなデザインのヘアピン
心の解釈も、感情の受け止め方も、人それぞれだろうから、
器の形も注がれるものも、きっと様々あるだろう
今の私の心は、どんな形をしていて、何が注がれているだろうか
愛を注いで
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今は、私に私の愛を注いでいる
以前は、友達や家族、たまたま会った人、画面の向こうの他人にまで、自分の愛を配っていた
ちょっとした事で幸せを感じられるから、それのお裾分けに
でも気が付いたら、自分の分まで渡してしまっていた
自分の分がない、すっからかん
挙げ句の果てに、自分そのものを削ってまで渡す始末
もはや、あげることが癖になってしまっていて、心のどこかでダメだ嫌だと思っていても、渡してしまう
渡したこと自体に対しては、後悔はない
それで少しでも助けになったり、喜んでもらえていたと思うから
とうとう限界が来て、目の前が真っ暗になった
希望がなに一つ見えなくて、自分がすっからかんで、胸の奥がひどく冷たかった
何が何だかわからなくなって、自分をひどく傷つけたくなって、言葉で散々自分をなぶった
なんとか立ち直って、今はボロボロになった自分をゆっくり直しながら、のんびり過ごしている
まだ、ついついあげてしまうこともあるけれど、先ずは自分の分、それから溢れた分を渡すことを学んだから、少しはマシになっているはず
だから、先ずは私に私の愛を注ぐ
すっからかんな心が満たされるまで
満たされて溢れた分を、貴方にお裾分けしよう