→短編・失踪事件について
本社1階のトイレの洗面台で私は髪を梳かしていた。他には誰もおらず、私一人だ。
洗面スペースは、大きな鏡が向かい合い空間を広く見せている。同時に、どこまでも続く鏡の世界に、自分がサンドイッチされてしまいそうな落ち着かない気分を覚えた。
ふと、後輩の言葉が脳裏をよぎった。
「本社1階のトイレ、合わせ鏡で怖くないですか?」
そう言えば、子ども頃に噂話で12枚目の鏡に何か映るとか、引っ張られるとかあったなぁ。怖いもの見たさで手鏡を合せてやってみたけど、自分の顔と対面するばかりで、肝心の合わせ鏡の部分は見ようにも上手く見えなくて……あれ? 今、合わせ鏡の奥の方、何か見え―――
―カラン
本社1階のトイレに櫛が落ちた。持ち主の姿はどこにもない。
大きな向かい合う2枚の鏡が、お互いを反転しながら映し合う。鏡の虚空が繰り返される。
その隙間に何か見えたなら、おいでくだちい。いらっしゃいませ。
テーマ; 鏡
→いつまで続けるのか。
言い得て雑だと知りながらも作り続ける文章に、
止まぬ表現欲求の影
なけなしの才能を探して書き殴り、
意地の果に自己嫌悪
何度も夢を破り捨て
何度も拾い集める
何度も、
何度も、
何度も……
テーマ; いつまでも捨てられないもの
→短編・その覚悟
誇らしさから「飲みに行こう」と誘われたのは久しぶりのことだった。
「すっかりくたびれたな」と苦笑するアイツは、昔とちっとも変わっていなかった。
「今まで何処に行ってたんだ」と訊くと、「お前が追い出したんじゃないか」と、アイツはあっけらかんと笑い飛ばした。
20年ぶりの連絡について尋ねると、「お前がそう決めたんだろ?」と返してくる。
下請け工場が多く集まる下町の居酒屋で、誇らしさとそんな話をした。
ようやく腹が据わった。
――数日後、とある巨大企業による20年来のデータ改ざんについての内部告発のニュースが、世間を騒がせることになる。――
テーマ; 誇らしさ
→名作探訪 第223回
珈琲焙船『夜の海』の『ヨルノウミ』
珈琲焙船『夜の海』は、大きな外輪を船の側部に持つ外輪船だ。そのシルエットは巨大な手廻しコーヒーミルのようにも見える。
店名を冠するオリジナルブレンド『ヨルノウミ』は、珈琲好き垂涎の一杯として知られている。異なる四季の夜の海に落ちた星々を丹念にハンドピックし焙煎。純度の高い星々のかぐわしい香りは遠い宇宙を想起させる。抽出する水にもこだわっており、焙煎度合いにあわせた深度の塩抜き海域水を使用。同海域にセイレーンが多く生息することから『ヨルノウミ』の余韻は長く、しばしば耳に妙なる歌声を残すため、車の運転など眠気覚ましには不向きである。
住所不定
電語番号なし
テーマ; 夜の海
→遠い遠い記憶
私の通学していた高校は郊外にあった。美術室だが進路指導室だかの窓にぶつかって死んだキジを鍋にして食べた教師が居たとか居ないとか……、そんな噂が流れるある意味のどかな高校だった。
私は自転車通学をしていた。
風を切って、国道やら川を越え、池や田畑を横目に自転車を漕ぎ、ラストにキツい勾配の長い坂道。
学校の校門はこの坂の先にあった。生徒たちはこの坂をえっちらおっちら登ることになる。
一年に二度三度、私は通学路の夢を見る。そして、夢の中の私が高校に到着することはない。
最後の難関の坂道を嫌って森の中に迂回路を探すこともあれば、山を越えて通学しようと悪戦苦闘することもあった。ちなみに現実には森の迂回路もなければ、越えるような山もない。
最終的にいつも遠くに高校を見て目を覚ます。
理由はよくわかっている。
高校3年間が私にとって快適ではなかったからだ。座右の銘でもないのに、勝手に孤独が私の横に居座ってしまっていた。ソイツを跳ね除ける勇気も愛嬌もない不器用者。楽しい思い出は数えるほどもない。高校生活のことはあまり思い出したくない。だから夢でも学校内に足を踏み入れないのだろう。なかなかに執念深い性格だ。
高校を卒業してから何年も経っている。個人の記憶とは恐ろしいもので、記録ではないから自分勝手に補正する。夢で見る通学路のように、ありもしないものを付け足したり。
案外と私の高校生活は本人が思うよりも楽だったかもしれないし、その反対かもしれない。
一度、実際に自転車に乗って、かつての通学路を巡ってみれば、何か再発見があるだろうか?
……うひょー、ネチネチとカッコつけちゃってねぇ。世の中そんなにロマンチック且つ都合よくできとりゃしませんがな。
テーマ; 自転車に乗って