子供の頃に自宅や寮で相部屋だったり、
結婚後夫婦で寝室やベッドを共有するのが
当たり前だったりする方々は、
自分のパーソナルスペースが欲しくなる時はないのだろうか。
もちろん、部屋数や金銭的な面でそうせざるをえない
ことがあるのはわかっている。
だが、外に出ても、家にいても、必ず誰かが隣にいて
気分的に「一人になりたい」と思っても
なかなかなれない状況を苦痛とは思わないのだろうか。
そう言う私は勿論、1日のうちある程度は
1人になれる時間が無いとストレスが爆発するタイプである。
社会で生きるために付けている仮面も
家族に対する気遣いも全部投げ捨てた時間。
声すら発さない、静寂に包まれた部屋。
この瞬間だけが、自分がただの「自分」でいられて、
その「自分」を再確認できる。
それが何よりの癒しなのだ。
という訳で、もし何かの弾みで同棲するようなことが
あっても、必ずマイルームは確保する。
それが話し合いを重ねても納得できない相手ならば、
今後の関係もそれまでになるだろう。
最近友人と遊ぶと、
別れ際に交わすことが恒例となっている会話がある。
「死ぬなよ」「お前もな」「生きろ」
「ガチでヤバければ逃げろ」
「ちゃんとご飯食えよ」「ちゃんと寝ろよ」
「本当にヤバければLINEしろ」
…人間社会に、仕事に疲れ果てた
哀れな大人の会話である。
本当ならば、明るく楽しく未来ある会話で締めたい。
だが、皆で集まって遊ぶ日は大概なところ、
週5の激務をくぐり抜け、体力を回復させる間もなく
迎えた週末である。
集合した朝からHPもMPもレッドゲージなのだ。
でも、それでもこの人達と遊びたい。
そうお互いに思っているところに存在するのは、
「友情」に他ならない。
大人になるほど希少で得難い大切な宝物である。
通り雨。
少し前までなら「面倒くさいなあ」なんて思いつつ、
予想外の水気にそれはそれで趣を感じていたものである。
しかし、近年は違う。
通り雨、即ちゲリラ豪雨。
降水こそ短時間かもしれないが、
一度に1ヶ月分の雨量を記録することもある。
治水が甘ければ、排水溝や河川から水が溢れ出し、
下水道のマンホールが水圧で吹っ飛ぶ。
趣を感じるどころか、命の危険で身体が強張る。
あの雨足は東南アジアのスコールを彷彿とさせる。
近年の気温の変化も考慮すると、
日本はもう温帯ではなく亜熱帯なのかもしれない。
とにかく、こんなに強力になっては
命がいくつあっても足りないので、
通り雨はほどほどにしてもらいたい。
秋🍁
…ということで、今日は紅葉の話。
ワンパターンな四季に分けられない近年の気候の影響だろうか。
紅葉も、その変動に振り回されている気がする。
例年に比べて1、2週間ほど後にずれ込むくらいなら
まだマシである。
確か去年だったか、葉がまともに色づかないまま
落ち始めていたのは衝撃的だった。
一区画だけその傾向にあるのなら
「たまたま」で済ますことができる話であるが、
地域を跨いだ上で多くの木々がそのように変化していた。
紅葉そのものの概念が崩れている可能性がある。
今年は一体どうなるのだろうか。
先週まで35℃近い残暑があったのに、
今週に入って段階を踏まずに5℃くらい下がっている。
しかし、秋虫は残暑の中でも暦通りに鳴き始めていた気がする。
例年並みか特例が出るのか、
どちらになってもおかしくはない。
私は帰省する時によくJRの在来線を使う。
新幹線を使う場合よりも所要時間は倍になるが、
お値段は半額くらいで済む。
そして何より、窓から見える景色が格段に美しい。
在来線には騒音対策のための壁が設置されていない。
そのため、富士山も壁に遮られることなく、
その雄大な姿を余す所なく見せてくれる。
熱海から伊豆の方向へトンネルを抜けると、
そこには太平洋の水平線が輝いている。
これらを目にした時の感動は
新幹線では味わえない興奮だ。
とはいえ、景色が次々と流れて行く
新幹線のトップスピードを感じられるあの車窓も
文明の進化を体感できて、
それはそれで楽しかったりもする。
どちらが良いかは好みが分かれるだろうが、
まだ見ぬ景色を求めて交通手段に変化をつけるのは、
新しい発見をもたらしてくれると思うのである。