《待ってて》
それがどれほど苦しい時間であるか、彼も体験したことのあった。
遊びの約束をしていて、そのとき事情があって相手が約束していた場所に現れなかったときだったか。
一秒が長く、一息が重く感じるのだ。
微睡みながら移ろう時間ほどのろまなものはなく、時間は遅遅として進まない。
刻む秒針を錯覚するほど静寂は耳に痛く、心を闇へと誘い堕とす。
——来ないのではないか。
そう思ったら最後、期待と不安の入り交じった瞳を揺れ動かしながら呼吸をする他なくなるのだ。
一秒が勿体ぶって推し進められ、一息が胸を内側から抉るような鈍さを感じるのだ。
あれは終わりのない停滞した世界だった。
結局彼がその感情を持て余したまま、日が暮れ切ってしまった。
だから彼は早く行かなければならない、という強い思いがある。
足を止めるなどあってはならない、と。
全てを終わらせる為に、目的を果たす為に。
ひたすらに、自らを止めることを良しとしなかった彼は辿り着く。
「お前が……アンタの所為でッ……!!」
悲しみに満ちたその瞳は、今も相棒の姿を映しているのだろうか。
それとも。
『絶対に、まだ来んじゃねぇぞ。……相棒』
憎しみに満ちたその瞳は、今や仇の姿しか映していないのだろう。
「あ、あ……ああああああああああぁっッ!!」
渾身の一振が、開戦の一刀が彼を紅く染める。幸か不幸か初手でイイところに当たったのだろう、血液が激しく飛散した。
それをまるで気にしていない彼は、片腕を抑え口を動かす男に再び刀を振りかざす。
何かろくでもないことを喚いているのだろう、彼の表情は煩わしさで満ちていた。
「黙れ……黙れよッ! お前は!!」
上から重力に倣っての一撃は、剣術においてどんな攻撃よりも重く強い。
それをもろに足に喰らった男は、また何事か口を開いては閉じた。
「殺す価値もないさ! でもな、アンタを殺す理由はあるんだよッ……!」
未だの心の片隅に残った良心との呵責からか、苦しみながら彼は腕を振るう。
亡くした存在を想ってか、ふと、悲しげに目を伏せる。
「……待っててくれ。すぐに、終わらせるから」
誰に言ったのか天を仰いで呟くが、いや、きっとわかっている。
『待っててなんかやんねぇよ。なんで未だ俺が待ってると思ってんだよ。置いて行くに決まってんだろ』
また彼は振り上げて、今度は肩口に刃を落とした。
既に血を流しすぎたのか、男の反応は鈍かった。
彼はそれを見て、暗い光を湛えた瞳で悔しそうに、それでいて憎々しげに男を睨んだ。
「この程度で死ねると思うなよ、下郎」
骨に当たったのか、動きの悪い剣閃が男の腹を突いた。刃は紅で曇っていて、何も映さない。
それと似て、彼の瞳ももう何も映さない。
『なあ、もういいだろ。わかったから。……十分だ、二度と俺の傍に来るな。俺は逃げるから、一生追い掛けて来いよ。俺に触れたら、負けを認めてやルよ』
鳥肌の立つような冷笑を浮かべた彼は、刃で男の腹を真横に裂いた。
「……ふっ……は、はは……」
何が可笑しいのか、彼は嗤う。
『……頼む。これ以上はやめロ。俺は君にこっちに来て欲しくなんてネぇんだ。だから、これ以上俺が赦される理由を作るんじゃねぇよ』
それはそれは、愉しそうに哂うのだ。
「あっははは……ふはっ……あはは……」
狂ったように、刃を振り上げては下ろして。
『……なあ、もウ疲れたのか? もう、死にたイのカ? 早く消エて、いなクなりたいノカ?』
彼は血溜まりに座り込んだ。
『ワカッた。俺はもう、待ッてヤンネぇカラな』
つと、涙を零す。
「終わったよ……全部、全部っ……!」
『オつカレ様。サぁ、待チクタビれタンダよな』
罪を犯したばかりだというのに、晴れやかな笑みを浮かべ彼は目を覆う。
「早く向かえに来てよ——相棒」
『コレデ君ト一生一緒ニイラレルナ』
——怨霊というのは、生者を死に誘うモノらしい。
——霊は時間が経てば怨霊に堕ちやすくなるという。
《伝えたい》
強く願ったからといって、必ず伝わる訳ではない。
そんな物語のような、劇的な事は起こらないのだ。
けれど、その想いが無駄であるという訳でもない。
だから、わたしはこうやって言うようにしている。
伝えたくても伝わらないものは絶対あるだろうが、
伝えたくなくても伝わってしまうものもあるのだ。
怯えたとてらそれが意味を成さないときも知って、
生きる他ないのだろうね、いつかを信じ続けて。
《誰もがみんな》
人知れず小さくとも人は悩みを抱えている。
だからあなたは独りじゃない。
似た悩みを抱えていたり、同じ悩みを抱えている人はいる。
あなたに共感してくれる誰ががいる。
今、過去、未来のどこかに存在している。
お願いだから、独りにならないで。
大丈夫。
「あの言葉が君のくれた、唯一の形見なのかよ」
——嘘吐き。
《花束》
拍手喝采の中、私はステージから降りた。
演劇の幕が降りたのだ、もうそこに私の居場所は無い。
「お疲れ様でした〜」
共演者さんやスタッフさんに声を掛けながら私は、控え室まで戻る。
漸く手にした舞台だったのだ、緊張するのも仕方がないと思う。
「これ、ご友人だと名乗る方から頂いた花束です。あなたに渡して欲しい、と」
スタッフさんから渡されたのは、薔薇の花束だった。
「あら情熱的……誰からかしら」
何気なく、添えられていたカードを見ると、
『親友からの気持ちよ』
とだけ書かれていて、恐らくこの送り主であろう彼女の素っ気なさに笑ってしまった。
裏返してみると、まだ文章があった。
『これが、あんたの演技に対する』
文脈的に裏から見てしまったのかも知れない。
改めて文字を見ると、書き殴ったような字だと思う。
ねえ、花束って何が綺麗なの?
だってせっかく綺麗に咲いてる花を手折って、集めたのものなんでしょう。
それの何が綺麗なのか、わからない。
そのまま野に咲いている方が何倍も心が揺さぶられて、美しいって感動できるわよ。
花束なんて、窮屈な布に綺麗に押し込められただけ。そこに花の個性も何も無いわ。
その本来の才能を殺してるようなものでしょ。
そんないつかの会話を、ふと思い出した。
つまりこれは、そのメッセージなのか。
「……私だって、そのままでいたかったわよ」
夢の為に捨てた想いを、夢の為に捨てた『私』を、彼女は大切にしてくれているんだろう。
だから彼女は私にとって、最高の親友なんだ。
《スマイル》
笑顔——それは時として、自分自身の心を守る為に使われるのです。
ある資産家が、その財産を狙ってか刺殺されるという事件が起こりました。
彼にはそれはそれは美しい妻がいて、彼女は彼を深く愛していました。
ですから、彼が亡くなり酷く悲しみました。
けれど、人脈も広く友人の多かった彼を弔う為に、葬式主として葬式をせねばなりません。
式中彼女は一滴も涙を流すことなく、柔らかい笑顔でこう言いました。
「きっと夫も、皆さんが来て下さって喜んでいることでしょう。彼なら持ち前の明るさで、あの世でも幸せに暮らしているでしょうから」
そうに違いない、と皆彼女に同意します。
彼女の表情はたしかに笑顔ですが、陰りがあったからです。
その言葉を否定すると、彼女は悲しみに泣きくれてしまうのではないか、そんな思いが皆の心に共通していたのでした。
そうして悲しい葬式を終えた後、パーティが開かれました。
この国では、葬式で故人の死を悼み悲しんだ後は心配させないように、と故人の冥福を祈ってパーティを開く習わしがあるのです。
空気を明るくするのが狙いですから、服装は色を問いません。寧ろ明るい色のドレスを纏う方が好まれるのでした。
赤、黄、青、水、桃、緑……色とりどりのスカートが揺れる中、彼女だけは黒のドレス姿で壁の花となっていました。
黒は故人への悲しみを表す色ですから、本来葬式後のパーティで着るのは御法度です。しかし、夫を亡くしたばかりの彼女に、その死を悲しむな、などと言えようもありません。
その所為もあってか、彼女に声を掛けられる者もいませんでした。
そしてパーティは幕を閉じます。
「本日はどうぞ、いらして下さりありがとうございました」
最後の最後まで彼女は、一切の涙を零すことなく気丈に振る舞いました。
彼女はとても美しい女性です。
不謹慎にも、その可憐さに心惹かれた者が数名いたのです。
彼女がパーティの片付けをしていると、扉をノックする音がしました。
不思議に思って行くと、そこには生前夫ととても親しくしていた男性がいました。
「君のことが心配になって、少し様子を見に来たんだ。大丈夫かな?」
男はそう言います。
本心でしょう、その目は不安で満たされていました。そして、もう一つの本心も微かに顔を見せていました。
それは彼女に惹かれたということです。
彼女はそのもう一つの本心に気が付かないまま彼を家に招き入れました。
「心配して下さってありがとうございます。でも、大丈夫です。彼がいなくて……少し、寂しいけれど」
そっと目を伏せた彼女は、とても儚い花でした。
男はその方を優しく抱き、こう言います。
「無理しなくていい。今ここにはあなたの夫の親友しかいないのだから」
その言葉が、きっかけだったのでしょう。
彼女は彼との思い出を語ります。
笑顔が好きだと、最初に言われたこと。
初デートは緊張してよくわからなかったこと。
恋愛映画を見ると初心な反応をしていて、それがかわいく思えたこと。
たわいない日々が愛おしく思えたことを。
思い出話をする内に彼女の笑顔の仮面が崩れ、泣き始めてしまいました。
それを男はそっと抱き留めます。
彼女が泣き腫らした瞳で男を見つめ、男は真摯な瞳でそれを受けます。
それからどちらともなく顔を寄せました。
男が彼女の悲しみに付け込んだという卑怯さに、きっと目を逸らして。
外では雨が、降り始めていました。
そして彼女は、二年後、ある大企業の社長の男と結婚に至るのです。
その男もまた、すぐに死んでしまうとは知らずに。
「笑顔の仮面の下が、素顔だなんて誰が言ったのかしら? ……騙される方が愚かなのよ」