『誰かのためになるならば』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
え?その選択が誰かの為になる?
じゃあさ、その“誰か”って、誰よ?
仮に、そうすることでその誰かさんが救われたとして。
お前はどーなんの?何を得るの?
顔も名前も知らない誰かを救えたっていう功績?
まさか、自分の正義感に酔っちゃってるんじゃないだろうね?
まぁお前の選択は間違っちゃいないよ、お前が決めたことだから。正しいも間違いも、自分で選んだことなら第三者が評価する筋合いはないさ。
だからお前の理想通り、その選択を遂行したとして未だ見ぬ“誰か”が救われる。ソイツは幸せになる。ここまではお前も今描けてるんだろう?
けどな。
それで全てが丸くおさまるだなんて、そんな虫の良い話なんか無いことに気付け。誰かの願いが叶えば悲しむ誰かがいる。全員が幸せになるなんて無理だ。
即ち、お前がその選択をとって、“誰か”を救えたとしても、その裏側では嘆くヤツだっているんだよ。
それが誰だか分かってるか?お前がどれだけ必要とされてるか、自覚はあるのか?
泣くのを堪えるのがこんなにもしんどいことを初めて知ったよ。
いいか。1度しか言わないぞ。
俺の前から居なくならないでくれ。
良く分からない“誰か”より、俺を救ってくれないか。
誰かのためになるならば
自分は犠牲になってもいい
誰かが嬉しい 誰かが喜ぶ
私はどれだけ疲れても どれだけ苦しくても
誰かのためになるならば
少しでも、気が楽かな
誰かのためになる、ならない
関係なき、神社やお寺にお詣りに
行った際は、ごみ拾いをしながら
参拝している。
ただ生きているだけで、誰かのために
なる。なっている。
気づかないだけで、きみも
あなたも。
ひとりぼっちで、苦しんでいる
今は、でも
これから先のことは
だれにも、わからない。
これから先の未来に花束を。
誰かのためになるならば
―この身がどうなろうとも、未来のある誰かのためになるならば―
そう言って、剣の光に包まれる勇者の姿や、魔法陣に包まれる魔法使いの姿。
一生懸命見ていたアニメの中にある「絶対的役割」のある世界。
主人公の生き生きとした表情や、困難に打ち勝った後に訪れる幸せな世界。
幼少期から大好きだったそれは、大人になった今も変わることはなかった。
その世界を楽しめる自分は、アニメの世界にあるような「絶対的役割」のある主人公とは全く異なる人生を歩んでいる。
この世には残念ながら戦争が存在するものの、魔法も魔族もない。
しかし、誰かのための勇者や魔法使いは存在している。
誰かは時に誰かの勇者や魔法使いになる時がある。
私にとっての勇者や魔法使いはもう現れているのだろうか。
誰かのためになるならば
誰かのためになるならば
僕は死んでいなかったかもしれない
誰でもよかったんだ。本当は
君じゃなくても良かった
_でも僕は、君に欲を言ってしまったみたいだ
だから、これからは我慢しよう
貴方の為に
「大丈夫だよニコッ」
嘘をつこう
貴方の為に
ずっとそうしていたら
何故かこんな事になっちゃった
僕は君の役に経てたかな、、
キミにボクの存在を気づいてもらえてたかな、
僕は君にこう言ってしまったんだ
「お願い…だから、な、ッんでもずる"がら"!!離れないで、もう僕のことを見捨てないで!!泣」
僕、君にだけは見捨ててほしくなかったよ
本当はそんなこと思ってないけど
思いたくもないけどボソッ
だからボクは「君じゃなくても良かった」って自分にウソをつき続けてるんだ。
本当の本当の本当は
『 君が良かった。』
ここまで見てくれてありがとう。
「誰かのためになるならば」
誰かのためになるならば、自分のことなんか気にしない。
どれだけ嫌でも、どれだけ辛くても、
どうせ私の想いは誰にも届かないから。
私が幸せになれない分周りが幸せになればいいから
誰かのためになるならば
そう思うとがんばれる時がある
誰かの笑顔を守るためなら
あなたの笑顔を思い浮かべたら
私も自然と笑顔になれた
誰かのためになるなら、私が居なくなった方がいいのかもしれないね
・誰かのためになるならば
そう思う人は心優しい温かい人が多いと思う。
でも、時にその優しさが自己犠牲に変わり
自分を縛りつけて辛く、苦しいものになってしまう。
誰かのためになるならと、
自分を殺すようなことはしないで欲しい。
それは"優しさ"じゃない。
自分のこころを大切にしてほしいんだ。
何かをしてもらったことがあるなら、
その人のために何か出来ることがあるかもしれない。
優しさを優しさで返してあげよう。
誰かのためになるのなら、と毎日教会で祈った。
紛争地の子供たちが救われますように。
嫌な親を持った子供が将来報われますように。
世界で誰も人が死にませんように。
殺人がなくなりますように。
自殺がなくなりますように。
「祈ってるだけでどーすんの」
教会に行く前の朝、弟が私に話しかけた。
ふとテレビのニュースが耳に入った。
14歳の少女が飛び降りたらしい。
私の祈りは誰も救うことができていなかった。
「田丸一郎さん、ノーベル賞受賞です!」
日本の男性がノーベル平和賞を受賞したことで今朝のニュースはもちきりだ。同じ国の人が平和に繋がることをして受賞されたことをもちろん私は誇りに思う。
でも、彼のみが受賞されるのに納得はしていない。今見える彼自身も、その裏にある人々の努力を忘れているように見えた。
きっかけは、とある夢だった。その日、私は授業で中東の戦争とその影響についての動画を見た。そのせいなのかは分からないが、夢の中で私はその現地、つまり「戦場」にいたのだ。せまりくる弾丸、雄叫び、歯を食いしばって恐怖や痛みに耐える私よりも小さな子供たち。
彼らの手には銃があり、立派な兵士としてこの地に送られていた。まだ12歳なのに家族を守るために自らの命を犠牲にする、その事実に私は衝撃を受けた。
動画でもそのようなことは言っていたのだが、実際に見るのとはやはり感じるものが違う。そのときの夢の中の私も命の危険は十分あったのだが、そんなことは気にもならなかった。とにかく彼らを守りたかった。
でも、そうはならないのが現実。目の前で死んでいく彼らを私はただ無力感に襲われながら見ることしかできず、それがもどかしくて悔しかった。
夢から覚めたとき、私は泣いていた。絶対に彼らを救いたいと思った。もちろん夢の中の話だから、彼らが本当に実在する少年とは思えない。でも、至極似た状況にある少年少女が現地にいるのは確かだ。
初めて、人の命をとても尊いものだと思った。命が大切なのは知っていたけれど、身をもって実感したことはない。
それからの私は早かった。とにかく地理と歴史を勉強しまくり、先生たちとも相談して中東の戦争状況や理由などを研究している教授のいる大学に入り、一人でも多くの命を助けるために多くを学んだ。
同じように命を助けたいと思っている仲間を集め、何度も話し合い、何度も国のお偉い様方を説得してようやく、現地に行く許可がもらえた。ひどく嬉しく、でも覚悟も大きかったのを覚えている。
今度こそ、彼らを救うのだ。そのために自分の命が脅かされてもかまわない。救うことのできた少年少女の中に、これからの平和の鍵を持つ子がいるかもしれない。助けることで、現地で何かが変わるかもしれない。
それが誰かのためになるならば、私はそれを厭わない。
そう思っていたし、仲間もみんなそうだった。その考えは今も変わっていない。
早速現地に行き、少年少女たちと話もした。彼らは自分の家族を愛していて、だからこそ戦地に赴いている。でも、彼らの家族もまた、彼らを愛していた。訪ねてみると、亡くなった報告だと勘違いして泣き崩れる親や、我が子を心配してもともと少ない食事さえもままならない人がほとんど。
人間の愛の深さに私たちは感動し、栄養と体温の確保に必要なものをできる限り与えてその場を去った。
軍備を与えると敵国と日本が対立することになりかねない。そう考えた私たちは、少年少女たちに栄養たっぷりの食事と毛布、それから衛生面のいい手当をほどこった。そのおかげか、やつれていた彼らの顔も徐々に輝きを取り戻している。
そのようなことを繰り返すうちに、私たちは敵国の少年少女にも同じことをするようになった。対立していても人間だし、子供だ。命に優劣はない。
そんな私たちの思いが大人たちにも伝わったのだろう。少しずつではあるが戦争は終息していった。
だが、終息した喜びを私たちは分かち合うことができなかった。迫りくる銃弾を避けきれずに命を落とす仲間や、大怪我を負って日本に帰らされた仲間がほとんどで、残ったのは私と田丸だけ。かくいう私も、終息を目前に攻撃によって命を落としてしまった。
そういうことで、田丸は一人きりで終息の現場を見、日本に帰ってきたのだ。そんな彼を、もちろん日本は歓迎した。ノーベル賞も受賞した彼は、今我が物顔で壇上に立っている。
だが私は知っている。この戦争のために命を尽くしたのは彼以外にもたくさんいるということを。彼らの知識のおかげで、田丸は今生きてここにいる。
誰かのためになるのならば、命は惜しくない。そう考えているのは、田丸以外の全員だ。彼は、ちやほやされるうちにその思いを忘れてしまった。
もう霊となった私にはどうすることもできないし、賞が欲しいわけではない。ただ、みんなで命を捨ててまで行動していたあのときの思い───私たちの合言葉でもある「ワンフォーオール、オールフォーワン」を、忘れないでいただきたい。
そう願いながら、私は成仏するのを感じていた。
───「誰かのためになるならば」
「誰かのためになるならば」
「自己犠牲を正当化するために掲げてるセリフ
じゃないですか?
ひねくれ者の私にはできません」
って言いながら、やっぱり今日も一人黙々と。
何かの為にしたことが、誰かの為になったら素敵だね。
誰かの為にしたことは、またヘタこくだろうから。
「誰かのためになるならば」
自分の生き方は自分で決めたい。けれど運命というものが、あるのだとしたら、その流れに逆らえない、逆らってはいけない時もあるのかもしれない。
最近、宇宙神の計画は人智を超えていると感じる。自分の思いのままには、いかない時がある。
これから、どう生きていけば良いのか、私はまだ暗闇の中にいるけれど、心の中にあったのは、誰かのためになるならばという思いだった。
さしたる力もなかったから、夫を支えてその影の下で生きていく、ひっそりとした生き方を貫くつもりであったし、私の最大の願いでもあった。それが今、大きく揺らいでいる気がする。
こんな私でも、未来の希望の光となれるのだろうか?
夫ひとりのためなら、簡単にやれる気がしていた。心の中の深い所に眠っていたのは、種であった。人類のさらなる繁栄と発展という夢だった。その種がいま発芽しそうである。
未来は人々の願いの心で決まる。私の中で発芽しかけた種を育てていくためには、私ひとりでは不可能だ。
いまのこの願いを叶えたい。誰かのために。どうか弱い私に力を貸して欲しい。未来の子供達のために。
【鳥かご】【誰かのためになるならば】
鳥かごの中に入って誰にも責められぬように蓋をした。誰かのためになるならば、誰かのためであるならばこのかごを出ようかとも思ってた。でも、出る必要なんてないね。私が私であるために鳥かごで飛べる範囲を狭めたんだ。
「誰かのためになるならば。」
この言葉は私がよく使っている言葉ですね、
私が目標から見失っている時、「誰かのためになるならば、辛くても苦しくても我慢して生きてこう。」等心の中に言いきかけて今まで生きてきました。
その時は生きたいという願望が無くなっていた時期に言っていたので、ここで過去の事を思い出しますね。
私は失敗ばかりし過ぎて、誰にも認めてもらえなくて助けてくれる人が居なくなってしまいました。そのせいなのか分かりませんが、人を信用するというのが無くなり、目を背けるようになりました。
私の言葉から言えるような事では無いですが、
「誰かのためになるならば、辛い事があるのであれば我慢せずに自分の気持ちを少しでもいいので、誰かに打ち明けてみてください。そうしたら、誰かのために、じゃなくて自分の為にどうにかしょうという言葉でで来ると思います。」この内容は私が皆さんに告げたい言葉です。
もしこの内容が不快とか思ってしまったらごめんなさい。
私はこんな言い方しか出来なくなってしまったので許してください。
心を無くしかけているのでこのような言い方しかできませんでした。
私みたいならない様に皆さん気をつけてくださいね。
投稿を読んでくださった皆さん、ありがとうごさいました。
終わり。
誰かのためになるならば
頑張りたい
見返りを求めず頑張りたいと思う
でもどうしても見返りを求めてしまう時がある
それにイライラしてしまう自分も変えたい
自分が好きで頑張るのなら見返りを求めず!
それでもだめなら頑張ることを少しやめよう
じゃないと自分が自分でいられなくなる
と思っているのになかなか出来ない自分が
もどかしい…
「誰か、そのひとのためになるならって、やった行動で自分が傷ついた事例なら複数個あるわ」
今日も今日とて手強いお題がやってきた。某所在住物書きはガリガリ頭をかき、どう物語を組むべきか、相変わらず途方に暮れている。
「何年も昔のハナシだけど、一番困ったのがコレよ。『こういうハナシが読みたいのか』って、コメントそのままの物語書いたら、コメントよこした本人から『それ私地雷です』って。……あのさぁ」
意外と、『そのひとのためになるなら』って行動を何もしないのが、そのひとのためになる説。
物書きは昔を想起し、うつむいて床を見た。
――――――
職場の後輩に、アパートの自室で使っていた私の焙じ茶製造器……茶香炉をせがまれた。
「私にとっては、結構、大事な思い出なの」
後輩は言う。無償譲渡が不満であれば買い取る、とまで提案してきた。
フリマアプリにネットショップ、専門店、100均の代用品等々、自分の好みに合致するデザインなら、いくらでも探せるものを。
それでも、後輩は「その」茶香炉が欲しいという。
茶葉から淹れて茶を飲む習慣の無い後輩に、茶葉を消費して香るそれは、無用の長物のように感じた。
きっかけは職場だった。
『先輩、焙じ茶製造器まで処分しちゃうの?!』
室内の余分な家具だの小物だのを、理由あって、整理し片付けている最中だった。
『他人に売っちゃうくらいなら私欲しい、なんなら私買ってもいい』
今日も、仕事の帰りに小物を売り払おうと、小箱3個を職場に持ち込んでいた。
その中に茶香炉が含まれていて、後輩に見つかり、「処分しちゃうの」、に繋がったワケだ。
茶香炉は、プチプライスショップ等のアロマポットでも代用可能な香炉で、オイルの代わりに茶葉を熱し、その過程で焙じ茶の茶葉と香りを作り出す。
緑茶、紅茶、ハーブティー。遊びで山椒の葉をブチ込んだこともあった。
たまに私の部屋に来る後輩は、この香炉の香りがひとつの癒しになっていたという。
「記憶が間違ってなかったら、直近だと多分6月25日とか、5月10日とか」
後輩は具体例を挙げた。
「私が精神的にバチクソ疲れて、先輩の部屋に厄介になったとき、先輩、部屋で焚いてくれたじゃん。
先輩には小さい気遣いだったかもしれないけど、私、その気遣いがメッチャ嬉しかったの」
だから、処分しちゃうくらいなら、欲しいなって。
相当思い入れがあったらしく、後輩は私がイエスともノーとも言わないうちに、茶香炉を大事そうに、両手で包み抱えて、自分の机に置いてしまった。
「茶香炉には、茶葉が必要だ。お前わざわざ茶香炉用に、淹れる習慣の無い茶葉を買うつもりか」
「買うもん。淹れるもん」
「淹れた後の片付けが面倒だぞ」
「お茶出しパック使うもん」
「あのな」
「お願い。処分しないで」
「……」
お願い。
後輩は再度呟き、私を見て、香炉を遠ざけた。
こうなったら後輩は譲らない。テコでも動かない。キャンドルと茶葉の出費も、黒いスス取りの手間も、後輩には何の説得効果も無い。
「私の負けだ。認めよう。参った」
茶香炉を自室に留めておくことで、誰かの、後輩のためになるなら、無理に手放す必要も無いだろう。
「それは処分しない。香りが欲しくなったら、これまでどおり、私の部屋に来ればいい」
ため息ひとつ吐いて茶香炉を取り上げると、後輩は安心したような、嬉しそうな笑顔で、私を見た。
〜誰かのためになるならば〜
誰かのためになるならば…
あいにく私にはそんな感情持ち合わせていない。
そもそも現代においてこういった感情を持ち合わせている人はいないと言い切ってしまえるほどではないだろうか?
もし「誰かのためになるならば」と何か行動を起こすとすれば、それは大なり小なり損得勘定がついてくる。
例えば、仕事上で自分のイメージを良くしたい、給料UPや出世するためなど…
「誰かのため」とは言い変えれば「自分のため」なのだ。
しかし、それとは別の特別枠は存在する。
こう言った思想が乏しい私の脳をフル回転させて思い返してみるといくつか特別枠が存在した。
それは家族、幼少期(私の場合、小学校)から繋がる友人、ペットだ。これらの存在はその時の感情がマイナスでない限り、「〇〇のため」の〇〇に当てはまる。
私にとって特別枠は「与えられ与え返す」存在だ。損得勘定がある上でそれを上回る深い結びつきを持つもの。
何かあれば力を貸したいと純粋に思えるのはナゼかを考えてみると、それは相手が与えてくれる時に限りなく純粋に見返りや疾しい気持ちが無いことが分かるからなのかもしれない。
つまり与えてくれた相手も純粋だから私もそれに応えるように純粋に与え返すということだ。
「無償の愛」とは異なるがそれに限りなく近い。
そう思うと純粋であればあるほど無償の愛は生まれやすいのかもしれない。
普段は考えない「誰かのためになるならば」
改めて自分の思考を知る機会を与えてくれたこのお題が正に「誰かのためになる」存在である。
誰かのためになるならば。
そんな素晴らしい事、私には出来ない。
自分が生きていくだけで、必死だから。
生きているだけで、誰かのためになる。
常日頃、そんな実感もない。
誰かのためになるならば、
何か行動に移せる人になりたい。