『蝶よ花よ』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
私は4人兄妹の末っ子で、
兄が3人いたので紅一点の女の子は
それは大切にされて「蝶よ花よ」と
育てられた…
な〜んて事は一切無い…むしろ逆だ
生きる為の生存競争は厳しい
女の子だから、妹だからなんて
甘やかしはなかった…
田舎育ちの私は、おやつと言えば
家周りや山々の木々が付ける果実だった
幼い私も野山を駆け巡りたくましく育った
両親も4人を育てるのに必死だったから
とにかく生きる為には自立が必須だった
けれど、ひとつだけ特別な事があった
それは、可愛い服を身に付ける事
兄たちは皆お下がりだったが
女の子の私だけはいつも新品の服を
買ってくれた…
この点においては両親も私を優遇し
「蝶よ花よ」だったのかもしれない…
それなりにちやほやされて育てられたと思っている。
仲間や友人にも恵まれたほうだろう。
世の中がきな臭くても、この小さなパブでは、皆何でもない風を装っている。
結婚がうまくいかなかったとは思っていない。
夫は悪い人ではなくいつも優しかった。
恋心は持っていなかったが、夫を愛していた。
帰って来ないと知ったとき、枯れたと思っていた涙が流れた。彼のために泣けるまでの心がまだ残っていたのね。
今日も、パブに立つ。
お客さんたちはわたしを待っている。
いっときすべてを忘れて、店主を持て囃すことが、彼らの心の安寧に繋がる。夜のパブにしか来ない客もいる。
わたしはあの空間が好きだ。
『蝶よ花よ』
私はぬいぐるみが好き
だからね
お母さんのように
ゲームセンターのクレーンで取ったあと
机の本棚に
かわいいねって飾って
ほこりまみれにしておくのが
とっても
許せないの
ぬいぐるみは生きているから大切にしないとね
わたしがそう思っている限り
大切にしないといけないし
可愛がらないといけない
とても哀しいけれど
ご飯もあげられないし
トイレのお世話もできない
それでもわたしは
どんなペットよりも
わたしにはあなたが居てほしい
幼い頃から私は両親の愛を受けて
蝶よ花よと育てられた
おかげで今の私がある
知らない世界も多いし
世間知らずの私は
多分に漏れず
人を困らせて来た
あれこれ
わからないことが多くて
両親共に年を経た今も
迷惑をや心配をかけて居る
だけれども
育ってしまったからには
生きてゆかないわけにいかない
だから
静かに今日も
修行だと思いながら日々を過ごして居る
蝶よ花よ
「お嬢様 お待ちください」そう声を掛け
私は、お嬢様を追いかける。
あの頃のお嬢様は、何にでも興味を持ち
好奇心旺盛で、じっとして居られず
野原や花畑を掛け回り
綺麗な服を良く泥んこにしていた。
気に入らない事があると良く癇癪を起こし
手足をジタバタとさせ 我が儘を言っては、周りを困らせた。
しかし 喜んでくれると花の様な笑顔を見せてくれ 私達もその笑顔にほだされ
ついつい甘やかしてしまう....
こうして、幼少時に蝶よ花よと大切に
大切に育てられた お嬢様は、
成人すると 我が儘は、どこへやら
すっかりなりを潜め 立派なレディーへと
成長を遂げた。
こうして 貴族の子息の元へ嫁いで行った
私達のお嬢様は、一男一女を設け
妻として、夫を支え 立派に家を盛り立てた 大人になったお嬢様だが
あの花の様な笑顔だけは 幼少の時から
変わる事無く 私達や周りの人達の
心を何時までも 何時までも和ませている。
子供の頃から慣れ親しんだ
故郷の道から栗の花が消えた
その道は今も昔のまま
落葉広葉樹の山にかこまれている
春にはツツジや藤の花が咲き
畑には菜の花が咲いている
でもただ栗の花が無くなった
道沿いに有った栗の木も
栗の木が広く植わっていた場所も
みんな切り倒してしまった
そして6月に栗の花を
あちこちに当たり前のように
舞っていたゼフィルスと呼ばれる一群の
蝶は姿を消してしまった
ただそれだけ
人間にとって何も問題は無いことだ
蝶よ花よ
僕はもうこんなところまで来てしまったよ
蝶と花は補完関係にある
蝶も花も支え合っている
嗚呼、蝶よ花よ
なぜ話せもしない君たちは支え合えて
私たち人はわかりあうことができないのだろう
話すことという唯一無二の能力の無駄遣いなのか
どうか教えてくれ
蝶よ花よ
そうやって育てたくなるものだが
何事も程々が良い
蝶よ花よ
私は…。
太陽の下を堂々と、
歩ける様な人間ではありません。
私の手は、
真っ赤な血で汚れているのです。
そんな私が。
世の中の美しいものに、
触れて良い筈がありません。
でも。私は。
誰よりも美しい心と、
澄んだ瞳を持った貴方に、
惹かれてしまったのです。
何時も軽やかな貴方は、
まるで蝶が花から花へと、
舞うかの様で。
何時も華やかな貴方は、
まるで春の陽気に、
開く花の様で。
蝶よ花よ。
とは、言いますが。
そんな風に貴方を、
私は護りたいと思うのです。
貴方は私にとって
すごくきらきらしていました
蝶のような花のような
そんな貴方が何より好きでした。
花は溢れんばかりに咲き乱れて
その周りを蝶が戯れて
風は優雅にそよいで
燦々と照りつける太陽があって
青天井が太陽を据え置いて
海は宝石のように輝いていて
時々、人魚がこちらを覗いてくる
やがて灯火が現れて
あっという間に大きな炎となって
楽園を包みこんで
やがて灰になってしまったとさ
蝶よ花よ
舞い踊る命
彩りの宴を
踊り切れ
蝶も花も
なにもかも
盛りは短いのだから
僕も君もいつか蝶や花のようにうつくしくなれるかな。
なにかみえる
もうすぐ枯れるのに 迷ったのかい
それともお別れを伝えにきたのかも
あの美しい踊りは覚えている
声は聞こえないけど 輝いていた
人生は一度きりだ。
蝶の様に、美しく大空を羽ばたき
花の様に、可憐に枚散る
今からでも人生、やり直せるだろうか。
最初から決まってた/
小学生バスケクラブは弱小チーム
3年間で勝ったことなんて数えられるくらい
その時から負けスタート、
這い上がる為の人生だと決まっていた
負けることに慣れ
勝ちへの欲望は皆無
負けることが常
勝利なんて偶発的
そんな価値観で生きてきた
流れを変えようとはしてこなかった
その流れではダメなことはわかっていたが
見て見ぬふりを続け
自分に都合の良い甘ったれた言い訳を並べた
人間は強いだけが勝ちだけが正解じゃないと
それも一理あるが果たして真理だろうか
そんな自問自答を繰り返しながら
今まで色んな人間に会ってきて
今、初めてわたしの中の大きな
芯の価値観が揺さぶられている
動き出すきっかけをくれる人が現れた
ようやく手を差し伸べてくれる人が
そんな人をずっと待っていた
きっかけを、チャンスを
ここが分岐点
無下にはできない、したくない
わたしは進む
なにがあっても差し伸べてくれた手を離さない
大事に、見誤らないように、
自分自身で選択していく
こうなることは
最初から決まってたような気もする
だから待っていたんだ
苦しくとも死なずに、今日まで
蝶は生命の働き
花は生命の助け
蝶よ花よ
この世界を彩らせて
蝶よ花よと育てられました。
それはそれは窮屈で、
1日3回の餌付け、合間に芸を仕込まれて
帰る花畑は壁に無限に広がっている。
鱗粉を丁寧に払われ、
頭から水をかけられて飛べない私は
青空を夢に見るために今日も眠りにつく。
ChatGPTに尋ねてみた。
・「世間では」等、カテゴライズされたものに時々疑問を感じるのはおかしいでしょうか?
Answer
「世間」という言葉には、確かに「常識」や「普通」といった一般的な価値観や期待が含まれています。しかし、その「常識」や「普通」は時代や文化、地域、さらには個々人の経験によって異なることも多いです。ですので、それがよく分からないと感じることは全く不自然ではありません。
また、「世間の常識」は必ずしも絶対的なものではなく、むしろ多くの人が何となく共有している認識に過ぎないこともあります。だからこそ、自分自身の価値観や感覚が「世間」と違うと感じることがあっても、それはあなた自身が個性的で、自分の道を歩んでいる証拠とも言えるでしょう。
時には「世間」に合わせることも必要かもしれませんが、自分の感覚を大切にし、他人に惑わされずに自分の価値観に従うことも大切です。もし「世間」と自分の考えが合わないと感じるときは、それを考える機会と捉え、自分が本当に信じるものや、自分にとっての「常識」が何なのかを見つめ直すことができるかもしれません。
私にとっての当たり前をChatGPTが言語化してくれた。こうして文字になると不思議と安心できる。
「それぞれ」だから美しい。
題:蝶よ花よ
蝶よ花よと育てられた私は不幸だ。
僕の読む小説にそんな文が出てきた。
僕は訳が分からず、君に聞いた。
すると君は、
「私も正解とかは分からないわ、けど何となく何を言いたいのかはわかる。蝶よ花よって簡単に言うと機嫌をとられて、甘やかされたりすることでしょう?
それって間違いを教えて貰える機会を失うってことじゃないかしら」そう言い彼女は続けた。
「私もね蝶よ花よと育てられた。それはそれで楽しかったわ。
だけどね、貴方と出会って気づいたの。貴方は私とは違って挑戦し、失敗することで、より強く、逞しくなる。
貴方は自分で立ち上がる術をしっているのね、
でも私は、転んでも、失敗しても自分では起き上がれない。だから起こしてもらう。けど何が悪いのか分からなくてまた失敗し、転んでしまうの。」
「ええっと、つまり何が言いたいのかと言うと、、、」
「蝶よ花よと育てられたら、自分の成長に繋がらない、飛べることを知らない鳥のように可能性を秘めているのに開花させることができない、もしくはその機会を失うってことかな?」
僕がそう言うと君は大きく頷いた。