『春爛漫』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
はらはらと雨が降って
見上げるとはらはらと花びらが舞い降りてきました
「春爛漫」
恋星まりん🥺🥹
music♪ 幻惑のスクリィン 谷崎潤一郎(CV.豊永利行)
名前を呼ぶよー中島敦 ver 中島敦(CV上村裕翔)
桜が満開の通学路を歩く。
小鳥の囀りと虫の行き来を見て2024年も春がやってきたなと思う。
入学する一年生を見て私はさらに春を感じる。
クラス替え、入学式、制服、卒業式、そしてお花見など、桜には今年もいろいろな行事が満開だ。
お題: 『春爛漫』
天真爛漫な笑顔を実らせ、飽きられる季節が来る前に散りゆく。
花たちが浴びる太陽のような輝く光で、周囲を明るくする。
春は爛漫としていてこれからの未来が楽しみだけれど、
あの花のようになるために、私は一切油断して枯れたりしない。
"私"という花の、根本的なくきの部分を伸ばして、今よりもっと青空に近づけるように。
みせつけてあげる。
春爛漫に乱れ咲く、私の姿を!
#6 【春爛漫】
春爛漫と
咲き誇る花びらの下で
あの時の思い出を
噛み締めていた
みんなと過ごした
あの日々を
散歩の途中、桜咲き揃う公園に立ち寄った。満開の桜をふと下から見上げると、小さな妖たちが桜の枝にちょこんと座り花見をしていた。
まあるくてふわふわしている彼らは、なんだか玉麸に似ていた。あまりにもかわいらしくてしばらく眺めていると、遠くで笛の音がした。途端彼らは満足したように笑い、花と花の間からゆっくりと空へと昇っていった。
そうして、最後はぱちりと弾けて消えてしまった。ひとり取り残された私は、少しだけさみしくなった。
春が障る
みなさん「春が障る」ということがないでしょうか。
肌と空気との温度差がなくなり、感覚がぼやけていく。
そんな時、春に浸食されているような気分になるのです。
自分と自分じゃないものの境が分かりにくくなるとでも言いますか、なんだかすべての事象が他人事に思えなくなります。
桜の花びらが舞っていると、自分もその花弁の一片のように感じます。
道行く人が皆、いつかどこかですれ違った誰かの様な気がします。
何も覚えていないのに、大事な何かを忘れてしまっていて胸がきゅっと締め付けられます。
それらが私自身のキャパシティで支えきれなくなって、全部放り投げだしてしまいそうな不安にかられます。
いっそ放り投げても良いのかもしれませんが、大事なものもついでに捨ててしまいそうな気がして身動きがとれません。
私が春にぼんやりとしてしまうのは、自分と世界の境を意識の底に沈めておくためです。
考えすぎると、必要以上の障りが生まれてしまうのです。
受け止めきれない気持ちは引き出しにしまっておきます。
春は温かい泥のように心地よく、うっかりしていると足をすくわれます。
もがけばもがくほど、心の何かが削られて花弁が舞うだけで心乱されます。
そんな時、私は心の中で眼を閉じ身を任せます。
春に沈んでいけばいいのです。
山の葉が硬くなり青々と繁り出す頃には、幻想の春は薄まり、世界は輪郭を取り戻しているでしょう。
春爛漫の陽気な空が、この街に吹き荒れる。
春の嵐か、訪れか。
私はこの陽光にさらされながら、今日も桜並木の下を歩いていく。
春爛漫
日差しが温かく、風も心地よくなってきたこの頃。
ふと思い立って、朝に公園へと足を運んだ。
いつもの自分ならまだ寝ている時間だが、歩いている人は思いのほか多い。
視界の開けた広い公園には、桜の木が数多く植えられている。
今年の桜は遅かったから、まだ木に桜が付いている。
日が当たるところは葉が付いるのに、散る桜は思いのほか少ない。
時折はらはらと花びらが落ちるが、桜吹雪と言うにはまだ早い。
いつ咲くか、いつ散るか。
生活にそう関係がないとは思いながら、毎年とても楽しみにしている。
桜吹雪はいつだろうか。今日の午後か、それとも明日か。
桜爛漫
満開の桜の花が、みごとに咲き乱れていること また、非常に明るく華やかなこと。
意味があんまり理解できないので何となくで書かせていただきます
カーテンを開けると目の前には桜がたくさん咲いていた。近くの川には桜の花びらが沢山泳いでいる。今日はお花見をしようかと友人に連絡を入れる。ここは田舎で人も少ないから静かにお花見ができる。友達と合流し沢山の桜を見ながら酒を交わす。ピンクの様な天井の下で嗜む酒はより美味しいものだ
桜は散ったが躑躅は満開。
この町ではこれが春爛漫の状態だ。
休みの日、人々はいそいそと躑躅を見るために外に出かける。ある家は手作りのお弁当をもって、ある家はお店でテイクアウトしたものを持ち寄って。
些細な事だけれど、つい先日にとても嫌な事があった。
人に言ったら笑われて。親に言ったら呆れられた。
半ば不貞腐れながら散歩に出た。
桜前線は今年も順調。菜の花も。たんぽぽも。
世界は前に進んでいくんだ。
私の気持ちなんて、どいつもこいつも置き去りだ。
それでもどうして。
春爛漫の河川敷に。
私はほうと、頬がゆるむ。
がんばるか いや、まだ落ち込んでいたい。
なんてことない、昼下がり。
あの日まで輝いていた祖母
気がつけば色々と忘れていたけれど
私には最後までいつも同じ笑顔
同じ厳しさ
最後まで優しさが切なく響いた
ありがとう
どうして言えなかったのか彼氏の話
してたら春爛漫まだ元気だったかもしれない
ありがとう
夫となった彼の買った花束で
見送ったあの日は永遠に
春爛漫
暖かなそよ風 眩しい陽の光
そのなかにも感じる
少しの肌寒さ
溢れそうに咲く花々 喜ぶ蜂
その足もとに落ちている
少しの落ち葉
ふきのとうを食べる
甘くて
ほんのり苦い
眩しい春 悲しい思い出もたまに蘇るけれど
私を待つひとのところへ 帰ろう
植え込みにツツジが咲いていることに気付き、足を止めた。それぞれの植え込みにピンク、紫、赤の花が可愛らしい。桜が咲いているのには気づいていたが、もうツツジも咲いていたか。これが本当の春爛漫という奴だな。こんな綺麗な風景はスケッチしておかないと。スケッチブックを広げられそうな場所を探す。すると、おあつらえ向きに植え込みの近くにベンチを見つけた。ここなら、ツツジと桜をじっくり見ることができる。ベンチに座ると、鉛筆を持ちスケッチブックを広げた。描いていると、目の端に何かが動いた。よく見ると、トカゲだ。バッタをくわえてもごもごしている。お食事中のようだ。眺めていると、バッと何かが横切りトカゲがいなくなった。今度は何だ、と横切ったものを目で追いかける。茶色と白のぶち猫だ。先程のトカゲを叩いたり、噛んだり遊んでいるようだ。トカゲが動かなくなると猫は飽きたのか、ベンチの上で寝始めた。これは絵になるぞ。ヒラヒラと落ちてくる桜の花びらを猫の頭に載せ、私は絵に猫を描き足し始めた。
お題 春爛漫
春爛漫
それは春のもやもやを指す言葉だと思う。
ストレスは溜まるし、かと言って桜が咲くように明るい気分にならないわけでもないし。
そうは言ってもこの言葉、調べて意味を知った言葉であるし、深くそのことを感じることはまだないと思う。
桜は咲いて散るものだと思っているし、梅も桃も季節が来れば咲いて季節が終われば散るとだけ思っているから、「春爛漫はこんな意味だったのか。」と深く感じ入り、その意味に浸るのはまだ先のことだと実感できちゃうんだからね。
まあまあではあるけど、言葉はそこそこ知っている。けどまあ、意味とかを深く知って感じ入ることはほぼ絶対にない。言い切れる。あとは、言葉を深く知ろうと思うこともまだない。よほどのことじゃないとね。
遊びたいし、遊べないわけでもないけれど、遊ぶ気がしないなあ。誰かがまえ、
「春爛漫でいいわねえ、子どもは。」
と言った気がするけれど、誰だったかな。確かに、学校とか、遊び場とかで春爛漫と似たような気持ちになることもなくはない。ちょっとしたことで嬉しくなるし、その回数も多い。でも、その花咲いた気分もちょっとしたことで害されるよね。友達に文句言われたとか、嘲笑われたとか、やりたかったことがやれないことになったとか、ああ、春爛漫な気持ちって難しい。
夕陽を見ると−今日の分はまだ見ていないけれど−1日が終わりそうで残念なのに、なぜか春爛漫な気持ちになる。そのあと、「手伝い」という名の労働があるというのに。
でも、「手伝い」を嬉しく思うこともある。何かとても暇だったり、何かやりたいと思っていたりすることもあるから。
ここで、「私はガイノイド・アンドロイドです!」みたいなことを言い出したら、みんな「はぁ?」「嘘だろ」というでしょうよ。それで、笑ってもらえば春爛漫になれるかもしれないよ。
もともと、私の皮膚は人の温もりがあるし、生傷も絶えない。血の流れないアンドロイドには決してない青あざも持っている。アンドロイドとはどことなく、違う感じのある人だから、そう言って信じてもらえることはよほどの人でないとないだろうね。なんとしてでもその証拠を見つけてみせようと躍起になったりする人はいないと思うけど。
私はとてもこだわりが強く、そのおかげで春爛漫になることはとても多い人になったと思う。書体にもこだわり、お気に入りの字は「ふ」「り」「ひ」。この書体であればなお結構ですよ。
先ほど話したように、こだわりはとてもあるよ。だから、春爛漫というとても明るい気持ちになれたね。でも、一回、災いがあったね。新聞をグループで作ってたときだったかな? お気に入りの書体を見つけたもので、それに変更したら、とても文字が読みにくくなり、好評を得られなかったんだよね。あれは苦かった。苦かったぞ〜。
これで1000文字を超えたそうだね。おめでたい。
ベッドに敷いてる、真っ白なシーツを見ると、ちょっと変な気分になるんだよね。何というわけでもないけど、春爛漫とはほど遠いかな。
もう黄昏時。近所の桜スポットもすっかり葉桜でつまらないね。とっぷりと日が暮れて、春爛漫な空が曇ってるし。春爛漫な気持ちはどこへやら。
でも、やっぱり日が暮れると朝日を感じやすくなって春爛漫。
今日はいくつ、春爛漫な気持ちになったのかしらね。
書くことを諦めきれない私は、書くのを再開。締めくくりにくくなっちゃいました。春爛漫は、やはり明るく子どもらしい言葉なのかと思う。明るく無邪気で真っ白で、春の太陽みたいなやつ。てことは大人に
「あなたは春爛漫な人ですね。」
なーんて言ったら失礼?
「なんですか! 子どもと大人を一緒にしてはいけません!」
とか言われちゃうもんなんですか?
それとも、
「それなら春の陽だと言ってください。」
と言われるのかしら? だとしたらかなりの自信家だね。はてさて、私はやはり、とんでもないところで更新をしてしまう。だから締めくくりの言葉を失って、自殺行為に直結だ。というわけで、私の脳みそに唯一残された「ci vediamo domani.」という言葉で締めくくりをつけようと思う。これのあとに更新を重ねてしまったらどう終わらせるのか?
ちなみに、
「ci vediamo domani」というのはイタリア語で
「また明日会いましょう」という意味。初めてなのにたくさんの人がもっと読みたいと言ってくれました。
とても嬉しい。
春。
それは、出会いと別れの季節
それは、気持ちの浮き沈みが激しい季節
"春爛漫"
春の花が咲き、光に満ち満ちた様子のこと。
これから続く未来に絶望する事もあるけれど
それでも生きている限り明日は来る。
満開の桜が散ってしまうのが少し寂しく感じても
それでもまた春はやってくる。
だってそういうものだからね。
春爛漫という言葉が嫌いだ。
期待に、希望に、満ち溢れているその言葉が。
春がやってきた。
それでも私は過去に取り残されたまま。
春爛漫と言えば、1番に桜の木だろうか。背景としては、生温い風を体全体で受けながら、雲が少ない晴れた空の下を歩いている感じだ。正に今日の天気はその通りだと思う。暖かくて気持ちくて、ずっとそんな気持ちで歩いていたいと思うのだけれど、同時に何かやらなくてはと何かに急かされるのだ。毎度のことやって来る入学、入社、新学期などといった新しくならなければいけない文化に、やる気や期待、不安が胸の内で渦巻いている。陽気な春の日差しのように、力強くなりたい。けれどもその先で時折吹く寒風に、いつまで経っても怯えている。
やっぱりゲームって面白いよな。
インドアな彼の口癖、並べられた大量のプレステソフト。
仕事終わりに彼が作ったご飯を食べながら話してくれた。
今度の土曜日、好きって言ってたイベントに行く?
別に良いよ、(名前)ちゃんがそう言うなら。
ありがとうと伝えた時の、嬉しそうな彼の微笑みが頭から離れない。
4月に生まれた彼と暖かな日差しを浴びに行きたいと思った。
優しい彼と共に在りたい、と春を迎える度に思い出す。
(春爛漫)
春爛漫
ちょうどいい温度になってきた。
薄着でも平気なくらいで。
やっと春を感じている。