『愛があれば何でもできる?』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
愛があれば何でもできる?
愛する人?
恋人?
愛する人ができるのはどんな感じなのだろう
大好きな家族とはまた別の感情なのかな
愛する人のことずっと考えて
何もできなくなりそう
そんな感じなのかな
でも愛する人のためなら何でも頑張れそう
本当に愛する人のためならなんでもできる
この年で 英語初めて 面白い
発酵の 教養として 読んでいる
【愛があれば何でもできる?】
愛は万能ではない
愛のために争うし
愛のために戦争する
必要なのは
全てを肯定する勇気と寛容さだ
ただ愛がなければ
この世はとっくに壊れてただろうね
君のためなら何でもできるよ。何でもしてあげる。
その代わり
君は頭の先から足の先まで、髪の毛一本残らず僕のもの
『愛があれば何でもできる?』
Iがあれば大体なんでもできるらしい。
ただし不可抗力。なおそれも解決するだけの模様。Iだからとのこと。
Iでできるのは生きること。
愛でできるのは生きる自分を根本的に愛すること。それは逃げることでも己を己に隠すことでもなく。
だと思う。多分。未だあいのわからぬ未熟者青二才の感想。
#愛があればなんでもできる?
出来ることと出来ないことがある
私は合理的にしか出来ない
たぶん人の気持ちがわからない
自分のことばかり
愛があればなんでもできる?
彼女は俺に聞いてきた。
俺は、愛だけじゃなんでもは無理かもね……と答えた。それが間違いだった。そのせいで。
#愛があればなんでもできる?
愛があれば何でもできる?
俺にはその愛がよくわからんのよ。だけど結局人間の原動力は感情だ。体が健康でも心が死んでたらなにもできない。
だから感情の中で最も強いであろう愛があれば何でもできるんじゃないかな。想像でしかないけど。
しかし最近どーも疲れて敵わない。原因はなんとなくわかっているんだけど改善するのもちょっとなって感じだ。
原因を一言で言ってしまえば仕事だな。仕事のことでちょっとあれだ。まぁ仕事と言ってもバイトなんだけど。
要するに労働とはくそだという話だ。でその労働を改善しようとすると給料が減るのが悩みだ。
でもやっぱり金より健康だよな。今度機会があったらちょっと店長に言ってみるか。
Q、愛があれば何でもできる?
A、相手からも愛があるのなら
できるかもね。
見返りとかじゃないよ?
花を育てるとかもそうだけど、
愛情込めて育てたら
綺麗に咲いたとき、嬉しさは倍。
愛情込めて育てても
元気なく咲いたら最初は
「なんでだ?何が問題だった?」と
試行錯誤する。どんなにやっても
上手くいかないと段々疲れてくる。
一瞬でも愛が伝わったと分かれば
続けられるけど、何もなければ
やめてしまう。やめ時は人それぞれ
だけどね。
愛って自分勝手だと思う。
愛したくて愛す、やめる。
最初はなんでもできるよ?
さいしょ、はね。
ずっとは続かないさ。
愛する人のためなら
殺人だってできる。
なら、愛する人が犯罪者に
ならないように止めることができる。
2つセットじゃなきゃ意味ないと
思うのは私だけかな?
愛があれば何でもできる?
『愛があれば何でもできる?』
愛があれば何でもできるのかな。
愛がないと何もできないのかな。
愛があっても一緒に死ぬことはできないし
愛がなくても死に方を考えるくらいはできる。
愛に支配だけはされたくないな。
結婚した頃は、愛があればなんでもできると思っていた。
今、それは間違っていたとはっきり言える。
だって自分には
愛があれば何でもできる?
愛があれば何でもできる?と言っているけれど そもそも?マークが付いている時点で疑問形じゃ無いか 愛なんて曖昧で不確かで揺らぎやすいと証明しているものじゃないか
愛があれば何でもできるなんて確信を
持って言えてない以上一概にYESやNOで
答えを出す事も出来ない
しかし愛が無い人生は空虚でつまらない
愛しか無い人生は日常のサイクルが
破綻していくと思う
愛があればその人の為に何でもできると
問いかけてるけど
そもそも一方だけが愛を注いだって意味ないし お互いがお互いを思い合って
協力し合って自分が足りない部分や相手が
欠けている部分を補って行くそうやって愛を育んで人生を過ごして行った方が
結局は、その相手の為に出来る事が増えて行くと思うので愛がある無しに関わらず
生きている限り人との営みは切っても
切れないのだからそんな事考え無くても
良いと私は思う。
わからないけど、
何度転んでも
君のことを思い出して
立ち上がって歩いてきたよ
ここにぼくがいるよ
「愛があれば何でもできる?」
[愛があれば何でもできる?]
『難しい質問が来ましたね………』
薄暗いヴィランアジトで、
死柄木弔、エレンイェーガー、藤原佐為が合計3人で
考え込んでいた。
彼ら3人には、同じ共通点がいつくかある。
髪の毛がロング
170cm以上の身長
藤原佐為以外のエレンと死柄木は、闇落ちしている
『ア?』
『は?』
と、死柄木とエレンと発言したりと
『愛は、自分たちで作り上げるものだ』
『スキンシップ………愛なのでは?』
俺たちは〇〇によって、特別に選ばれた俺たちだ。
俺たちが存在しなければ、〇〇も、今、どうなっているのか知らない。
俺たちは、特別な人間
死柄木が、ふと一言を呟いた
『そう言えば…お茶子が言った発言…特別な人間なんていません…俺たちは、〇〇によってココにいる…
だから、オレも特別な人間だ!』
死柄木は、幼少期から家族がいない
藤原佐為は、疑問を抱いて発言する
『〇〇は、今、人間界にいる。私たちは、
アニメ界から………会えることも無いのですよ…』
ジロっとエレンが藤原佐為を睨んだ
『お前、ふざけるな。人間界にいる〇〇が悲しむ
じゃないか!それに、〇〇は、佐為アクリルスタンドを
持っているほど愛しているんだよ』
原作者の私、
眠い🥱🥱
歪でもいいと思ってた、それなのに。
「それはお前のエゴ」とのたまう
【愛があればなんでもできる?】
『愛があれば何でもできる』
何でもは無理。
それは愛が足りないってこと?
「愛があればなんでも出来る?」
愛があってもなんでもは出来ないだろう。
愛があっても、現実では人は生き返らないのだから。
でも、出来ることは増える。
愛する人が出来ると、人は力が漲ってくる。
この人のためなら、なんだってやれるんだと気持ちが昂ってくる。
実際に、愛する人が出来ただけで、今まで出来なかったことが出来るようになった人は数多くいる。
愛は人間の原動力の一つなんだ
相手に尽くせるかどうか。
誠心誠意対応できるのか。
そのラインはどこで決まるのか。
「愛があれば何でもできる?」
この問いに二択で答えるならば、それはNOじゃなかろうか。
「愛」など大層な言葉を掲げると、何だかこそばゆくて判断の勢いが鈍る。
けれども、その言葉を分解すれば、そこは自分の寛容さだとか、譲れない逆鱗のポイントだとか。
そういった色んな判定基準をクリアして初めて、実際の行動に移せるものだと私は思う。
分類するのも変な話だが、愛にも種類がある。
身近な人たちに対する家族愛に始まって。友人へ向ける友愛や、職場の同僚や訪れる患者さんに対する博愛や慈愛であったりと、場面場面で様々だ。
愛を向けるその相手が誰かによっても先の質問の答えは変わるだろう。
まあ、この手の問いかけならば、対象は最愛の人に限定されるのだろうけれど。
ぶっちゃけ。さほど相手に愛はなくとも、例えばいざ仕事ともなれば、普段家族にもしないようなことだって出来てしまうこともあるのだから。
最愛の人に限らずとも、似たようなジャッジは無自覚の内に繰り返されているように思う。
そんなことをうだうだ考えてしまうのは、つい昨日、職場であった出来事がちらつくからだろう。
沢山の患者さんと話をしていれば、同じお話でも、要約すれば話はシンプルなのに、自分の頭の中で順序立ててからでないと話せない患者さんもいらっしゃる。
私はそのスピードに合わせて根気よく話を聴けるけど、片やそれが待てずにイライラと態度に出して対応するスタッフも、残念ながら実際にいる。
そこは私と彼女でジャッジのポイントが異なるからだろう。
訪れる全ての患者さんに対して大きな博愛や慈愛の精神を向ける必要は無いし、カスハラのような無理難題に応える必要も勿論ない。
しかしながら、ここは医療機関なので。
患者さん側がマナーを守った上での相談ならば、親身にお話を聴くのは別に構わないのではなかろうか。
ましてや、まだ対応中のところへ端から横槍を入れて、嫌な空気をぶつけて来るのは違うように思う。
イライラは心の内に納めて、もう少し思いやりを持って仕事をすれば良いのに。
話が逸れてしまい申し訳ない。
お題に触発されて、ついつい思い出してしまった。
何れにせよ、相手に心を傾けられるかは場合に依りけり。
その見極めは、間違えないようにしたいものである。
(2024/05/16 title:035 愛があれば何でもできる?)
愛があれば何でもできるってホントなの?
愛にそこまでの行動力はあるの?
それはどのくらい関係を築けたらいいの?
なんで?
どうして?
疑問が溢れ出して止まらない。
私には愛があればなんでも出来るなんて
全く思えない。
何でもなんて簡単に口にしてはいけないと
思う。
─────『愛があれば何でもできる?』
乾電池にへと冷凍睡眠の主電源をまかせたいのなら、逃げ水で喉を潤してゆくというのなら、とくと愛せばいいんじゃないですか。僕、ほんとうは何も言っちゃあいけないんだ。ヴィトゲンシュタインはかく述べし、『語りえぬものについては、沈黙せねばならない。』
僕、恋と愛の違いさえも、この身で感じたことさえ、ないんですよ。
もちろん本は読みましたよ。でも頭でっかち尻すぼみになって、口手八丁なヘタクソな童貞こっきりなまんま、肝心の現し世のなかじゃあ、なんにも如実となりやしない。
じつは僕が読書家で、小学生でジュール・ベルヌの創元社文庫を読み下していた、そんな稀人なのである──なんていうのが、どうして話したこともない女の子が、一目見るきりで分かってくれるというのです?
それよりか、如何にも僕ら男子らのうちで、どいつが一番にその顔、その頬を清らか滑べらかな肌にしているか、これだけで『見分け』はついちまうんですから。
そうして終いには、あの厭世主義の学者にさえも愛想を尽かされる始末なんです。「思想家や天才、世界に光明をもたらし、人類を推し進めた人たちは、直接に世界という書物を読んだ人たちなのだ」とくる。少年よ、現実に帰れ、と……いうわけです。
女の子にしてみれば、僕のような野郎が世界を道連れにその娘の首を締めてみせてみたって、
「きもちわるい」
愛ですよ。これもやはり、愛でしょう。しかし飽くまでも、僕や彼のなかでの、愛なのです。自分を愛しているものだけが、世界さえも誰かのために滅ぼせるのだ──I believe what makes madness to be the one.
「Though this be madness, yet there is method in it.」
これが、女子は愛をもってして理解してくれるものなのか、はたまた愛ゆえに同情してくれる(──されども共感ではない)のでしょうか。
僕はこう考えられはしても、語る資格はないのです。愛があっても、経験がありませんから。
嫌でしょう、ご自分よりの年下で、社会にまともに出ていない青二才に、『愛ゆえに』人生やなにやらを語られるんですから。僕なら同じことになれば、其奴にせめてやっかみでもかけてやりたくなる。
どどつまり、僕が語れるのは、自分を愛してゆくという事象、こればかりです。
ですがショーペンハウアーのお墨付きでもありますよ。
「けっきょく、自分自身の根本的な思想だけが、真理と生命を持つ。ほんとうの意味で完全に理解できるのは、自分自身の思想だけだからだ」
ならば、僕が思うのは、愛があればいいのです。『僕が愛する僕』を愛する『誰か』がいるような、そんな『僕』を愛して、目指してみせるからこそ、僕は『誰か』が愛してくれるような『僕が愛する僕』になれますよ。
愛というのは詐欺じみた永久機関です。この愛という一言だけで、このとおり、ただひたすらに好循環する論理さえも生まれるのです。
ゆえん、あとは有るべきなのは、【『誰か』が愛してくれるような『僕が愛する僕』】であり、こんな僕となるために、どんな人が『誰か』に愛されるのか──これを直感できる僕の感性・品性とくるわけでしょう。
じつはこういうサガというのを、僕のような青二才の齢でも、少女というのは持っているらしい。
もしかしたら、このせいで、僕らわかい男子は、この所以に、女の子たちに惹かれているのかもしれない。
恋がこの魅惑による憧れだとすれば、愛はすべからく男性的──理性による探求と好奇による、己の向上のためのフィロソフィーなのかもしれない。
そうしてそんなこれ、こんな悩みの哲学モドキな思考は、女子の笑い声一つ、嘲うちいさな鼻息ひとつ、これっきりで、吹き飛ばされて、僕は恥ずかしくなっちゃう。
僕の愛はやはり詐欺、虚仮威し! 「Though this be madness, yet there is method in it.」──これさえも、女の子の声一つにさえ、叶いません。
でも僕、自分のフィロソフィーが世界さえ覆すと信じてる。愛はやはり、何でもできますよ。こういったら、アイツ、苦笑いでもするかな。
僕はひとり苦笑して、待っている。