乾電池にへと冷凍睡眠の主電源をまかせたいのなら、逃げ水で喉を潤してゆくというのなら、とくと愛せばいいんじゃないですか。僕、ほんとうは何も言っちゃあいけないんだ。ヴィトゲンシュタインはかく述べし、『語りえぬものについては、沈黙せねばならない。』
僕、恋と愛の違いさえも、この身で感じたことさえ、ないんですよ。
もちろん本は読みましたよ。でも頭でっかち尻すぼみになって、口手八丁なヘタクソな童貞こっきりなまんま、肝心の現し世のなかじゃあ、なんにも如実となりやしない。
じつは僕が読書家で、小学生でジュール・ベルヌの創元社文庫を読み下していた、そんな稀人なのである──なんていうのが、どうして話したこともない女の子が、一目見るきりで分かってくれるというのです?
それよりか、如何にも僕ら男子らのうちで、どいつが一番にその顔、その頬を清らか滑べらかな肌にしているか、これだけで『見分け』はついちまうんですから。
そうして終いには、あの厭世主義の学者にさえも愛想を尽かされる始末なんです。「思想家や天才、世界に光明をもたらし、人類を推し進めた人たちは、直接に世界という書物を読んだ人たちなのだ」とくる。少年よ、現実に帰れ、と……いうわけです。
女の子にしてみれば、僕のような野郎が世界を道連れにその娘の首を締めてみせてみたって、
「きもちわるい」
愛ですよ。これもやはり、愛でしょう。しかし飽くまでも、僕や彼のなかでの、愛なのです。自分を愛しているものだけが、世界さえも誰かのために滅ぼせるのだ──I believe what makes madness to be the one.
「Though this be madness, yet there is method in it.」
これが、女子は愛をもってして理解してくれるものなのか、はたまた愛ゆえに同情してくれる(──されども共感ではない)のでしょうか。
僕はこう考えられはしても、語る資格はないのです。愛があっても、経験がありませんから。
嫌でしょう、ご自分よりの年下で、社会にまともに出ていない青二才に、『愛ゆえに』人生やなにやらを語られるんですから。僕なら同じことになれば、其奴にせめてやっかみでもかけてやりたくなる。
どどつまり、僕が語れるのは、自分を愛してゆくという事象、こればかりです。
ですがショーペンハウアーのお墨付きでもありますよ。
「けっきょく、自分自身の根本的な思想だけが、真理と生命を持つ。ほんとうの意味で完全に理解できるのは、自分自身の思想だけだからだ」
ならば、僕が思うのは、愛があればいいのです。『僕が愛する僕』を愛する『誰か』がいるような、そんな『僕』を愛して、目指してみせるからこそ、僕は『誰か』が愛してくれるような『僕が愛する僕』になれますよ。
愛というのは詐欺じみた永久機関です。この愛という一言だけで、このとおり、ただひたすらに好循環する論理さえも生まれるのです。
ゆえん、あとは有るべきなのは、【『誰か』が愛してくれるような『僕が愛する僕』】であり、こんな僕となるために、どんな人が『誰か』に愛されるのか──これを直感できる僕の感性・品性とくるわけでしょう。
じつはこういうサガというのを、僕のような青二才の齢でも、少女というのは持っているらしい。
もしかしたら、このせいで、僕らわかい男子は、この所以に、女の子たちに惹かれているのかもしれない。
恋がこの魅惑による憧れだとすれば、愛はすべからく男性的──理性による探求と好奇による、己の向上のためのフィロソフィーなのかもしれない。
そうしてそんなこれ、こんな悩みの哲学モドキな思考は、女子の笑い声一つ、嘲うちいさな鼻息ひとつ、これっきりで、吹き飛ばされて、僕は恥ずかしくなっちゃう。
僕の愛はやはり詐欺、虚仮威し! 「Though this be madness, yet there is method in it.」──これさえも、女の子の声一つにさえ、叶いません。
でも僕、自分のフィロソフィーが世界さえ覆すと信じてる。愛はやはり、何でもできますよ。こういったら、アイツ、苦笑いでもするかな。
僕はひとり苦笑して、待っている。
5/16/2024, 11:02:50 PM