『宝物』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
先週、出張のおみやげにと、夫から六花亭のお菓子をたくさん貰った。
北海道移動中、運良く本店に行けたと言う。
素朴な草花で彩られた小袋はチョコレート、
「こっちは、パケ買いの缶」
同柄の小さな丸い缶には、ボンボンとあった。
缶を開けると、小さな砂糖菓子が6色。直径10ミリほどの、酒入りボンボンである。
可愛らしく、行儀良く、まるでジュエリーのような顔。
しかし、その味わいこそが、筆舌に尽くし難い宝だと思った。
【宝物】
「今日のリアルタイムネタに絡めたハナシをすりゃ、もう、『宝物』は昔プレイしたゲームの思い出に決まってるだろ……」
信じられるか、昔々の初代「かみつく」はノーマル技で、今日25周年迎えた第2世代からやっと幽霊に当たるタイプに変更されたんだぜ。
某所在住物書きは携帯機の電源を入れ、ダウンロード済みのゲームを呼び出した。
音源とドット絵の圧倒的レトロに、25年前を思い出す。コンビニ予約であった。初代からずっと初見プレイの相棒は水タイプだった。
理論も数値稼ぎも知らず純粋に戦って勝って捕まえていた頃の、なんと、懐かしい。
「で、4種類だけじゃなくなったボール、実は数種類、説明通りの性能じゃなかったっつーね」
執筆活動そっちのけで、物書きは画面を見つめ……
――――――
今日は朝から、昔々のゲームソフトとか、ハードの名前とかが、大量にトレンドに上がってくる日だ。
私が生まれる前のやつとか、やっと物心ついたかなって頃のゲームとか、ギリギリ知ってるけどプレイしたことないタイトルもあった。
私と同年代だと思ってたフォロワーさんが「初恋は今日25周年のオカリナだった」って。
「今でも当時のソフトは宝物」って。
ん?(年齢誤認の可能性)
……んん?(実年齢が迷子)
そんなどこぞのゲームの日の、昼休憩。
「先日、11月5日頃に、まだ緑一色だったイチョウの木の画像を見せただろう」
休憩室の、いつものテーブルに座って、いつもどおりお弁当広げて、いつもどおりに職場の先輩とふたりしてランチ食べてたら、
先輩のスマホが、ピロン、DM着信の音を鳴らした。
「アレの続報だとさ。いい具合に色づいたそうだ」
送信元は、先輩の実家のご両親。どこか知らないけど、雪国の田舎だって言ってた。
故郷の隣の隣の隣の、なんかその隣あたりの町に、「昔イタズラで悪さをした狐が化けたもの」って昔話のあるイチョウの大木があって、
どうやら、良い具合に黄色くなったからって、東京に住んでる先輩に画像を送ってきたらしい。
「今頃黄色くなるんだね」
「他のイチョウやモミジは、もうだいぶ、葉を落としているんだがな。このイチョウ、『イタズラ狐の大銀杏』だけ、色づきがとても遅いんだ」
仕組みは分からないが、不思議なものさ。
本当に狐が化けているのかもな。
先輩は呟いて、スマホの画面を見せてくれた。
「わぁ。ヤバい。綺麗」
表示されてたのは、地面スレスレに垂れてるたくさんの枝と、光加減でいろんな黄色をして輝いてるイチョウの葉っぱ、
その枝のひとつを気取って掴む、多分先輩のお母さんと、足元いっぱいに広がる黄色と薄黄緑。
よく見かける並木とは違う、大きい大きい1本のイチョウの本気を、見たような気がした。
「ずっと守られ続けてきた宝物だ」
スマホをスワイプして、別の画像を見せながら、先輩が言った。
「ただ、この町の観光資源、経済効果のある宝物、『千年の大銀杏』は、イタズラ狐より大きくてな」
大木のそばの祠とか、大きなイチョウを撮る小さな観光客の図とか、
スワイプしてスワイプして、ピタリ。
「それも、見るか?」
休憩室の壁時計を見ながら、先輩が聞いてきた。
見る。 条件反射で言いかけたけど、
先輩につられて時計を見たら、昼休憩終了まで残り3分くらいになってた。
「ヤバ!お昼ごはん食べ終わってない!」
「では、見なくて別に構わないな」
「見る!でも食べる!……やっぱ見な……る!」
「どうぞ。どちらでも、お好きな方を」
『宝物』
小さな頃は、宝物がたくさんありました。
いつから、それらがガラクタになったのか…
あんなに素敵に輝いて見えた物が、すっかり輝きを失ってしまい、ゴミにしか見えなくなりました。
今では、宝物を『宝物』と思える心が宝物だと思います。
失って初めて気づく、僕にとっての宝物。
それはまるで空気のように軽やかで、無くなる時はするりと手からこぼれ落ちていく。
そっから後悔しても遅いから、今ある宝物をちゃんと認識して大切にしていこう。
失ってようやく気づくモノ。
でも失ったらもう遅い。
だから、一瞬一瞬を大事に生きよう。
そうしたら、いつか、その宝物に触れられるかな。
宝物
失って初めてわかる
それは違うんじゃないかな
失って初めて気づくなんて
大事だったかも知れないけど
きっとそれは宝物ではなかったんだよ
失ってからその大切さに気づくだなんて、絶対にありえない。
本当に大切なら最初から大事にしてるばすだ
宝物は自分だけのもの
誰にも見られないよう、
盗られないよう、
壊されないように
上手に隠しておく
その方が安全だから
宝物はみんなそれぞれ箱に詰めて心の中に仕舞ってある。開けない箱もあるけれど、捨てたい箱はない。
誰にも見せない。誰にも見つからない。
私だけの、あるいは私と誰かとだけの、思い出。
宝物。誰だって宝と言えるものを二つ持っている。それは若さと健康だ。
なんてそれっぽいことを言ってみる。まぁ生まれた時から健康じゃない人もいるけどそれは置いておいて若さと健康というのは大事なのだと年を取るごとに痛感する。
年々肉体的に無理ができなくなって昔できたことがしんどくなってくる。人生の残り時間と老後の心配で悩んでばかり。
若さというより時間が宝と言うべきか。気がついた時にはなにかするには遅い。そんな年齢になってしまう。
だから今この時間が大切なのだ。今が自分の人生で一番若いと思って行動するべきなのだ。
そうわかっちゃいるけど毎日だらだらしている俺がいるんだよね。長年積み重ねた怠惰の習慣をどうにかするのは難しい。
もう一つ大切なのは健康。これも若さと同じくらい取り戻せないものだ。
肥満や糖尿病、アルコール依存症など色々気を付けないといけないのは多いけど特に歯は大事にするべきだ。
歯は大事だ。ちゃんと歯磨きしてフロスして定期的に歯医者に行って見てもらう。
これが基本的なことでなにも難しいことはない。誰にだってできることだ。
でもフロスするのめんどうでしないし歯医者にも痛くなるまで行かないのが俺だ。
わかっちゃいるけどめんどうなんだ。全部わかっているけどめんどくさいんだ。
もっとちゃんとしなきゃな。そう思いながらこの年で死ぬまでそう思い続けるんだろうな。我ながら救いようがない愚かさだ。
公園の土手の敷石のそのなかに、色のある光沢を見つけて立ち止まった。それをじぃとみてみると、なんの瓶飲料の欠片なのか、少し濁ったような綺麗な硝子片だった。
後ろから小さな子供が駆けてくる。立ち止まってそれを眺める自分の前に飛び出し、しゃがみこみ、これを拾う。「ああなんてきれいな硝子なんだろう!宝石みたいだ!」
子供はあたりを見回し、このきれいな石のいくつかあるのを発見する。そうして手のひらに拾い集める。子供の手のひらの中、捨てられたがらくたの硝子片が宝箱の中に招かれる。敷石の中に微笑むような温度が見える。かつての子供がそれを眺める。手を伸ばして、ひとつ、拾った。
宝物。
やっぱり家族。自分は恵まれてるから家族がいるんだと思う。
でも自分に辛いことや苦しい事があっても家族には言わない。迷惑をかけたくないから。
家族に大丈夫?とか苦しかったよねって言ってもらうのはあまり好きじゃない。そういう性格でもないし。
TikTokとかでライブ配信してる人とかなら打ち明けられるんだけどね笑
なんでだろ。これって家族のこと信用できてないって事なのかな?だったら最低だね。自分。
今年は受験で不安もいっぱいあって、成績とかも気にして、先生からは今年は受験なのでよく親と話し合ってくださいって言われるけど、話し合いとか無理って思っちゃう。時々、成績連絡表とか見せるんだけどね。テストの点数がまとめて書かれてあるやつね。
こっちが信用しきれてないのはまだまだ足りないところがあるから。100%信用されてるのかはわからないけど、相手なりの考えがあるのだろうと思う。
でもやっぱり自分の1番の宝物は、
家族なんだなって。思った。
何があっても守りたい
誰にも傷つけられたくない
私の”宝物”は子供達です
大学生になった娘に 素敵な彼氏ができました
私の”宝物”をまた同じように大事にしてくれます
以前よりも ”宝物”は輝いています♡
そういえば、私には宝物と言えるようなものがない。
家族や友達はいないし、金もない。幼い頃に大切にしていたものなんて、気づいた時には全てなくしてしまっていた。
社会の癌共の下で都会の畜生より酷い客と戦うだけの日々も、貴重な経験で宝物のひとつだ。
なんて綺麗事を言える余裕があれば良かったが、いつかそれを手に入れることに憧れる前に倒れそうで、夢ひとつ持たずに、ゴキブリのように必死に生きている。
一人でいた頃は宝物が沢山あった。
お気に入りの手帖。
お気に入りの腕時計。
お気に入りの服。
一緒に遊べる友達、仲間。
そんなものが全て宝物だった。
結婚して最初の頃は彼女が宝物だった。
やがて子供が出来て子育てが始まり
だんだん宝物とかどうでもよくなっていた。
手帳も買わなくなった。
腕時計もはずして
服なんかも着られればなんでもいい感じになった。
友達とも会わなくなって、
仲間みたいな関係の人も
職場に行けばギリギリいるかな?
みたいな感じになっていた。
子供たちが巣立ち、僕は猫を飼った。
猫はいつもそばにいてくれてすぐに僕の宝物になった。
でも一年足らずで彼は逝ってしまった。
その時はじめて妻と二人、向かい合って泣いた。
二人で一緒に泣いた時、
もしかしたら宝物はずっと
そばにあったのかもしれないと思った。
特別な何かでは無い。
誰の周りにもあるような普遍のもの。
それが宝物であるかどうかは
自分が気づいているかどうか?だと言う事に
その時やっと気付けた気がした。
多くは要らない。
ほんのひと握り、
ありがとうと思える何かがそばにあるだけで
心は満たされるのかもしれない。
私の宝物は、なんだろう。
生きていくのに必要な
家、仕事、お金、そんな物を
削ぎ落として考えてゆくと。
私の宝物は、守りたい物になり。
奪われたくないもの
に、行きついた。
私は、私より大事な子どもたちが
何よりの宝物だ。
いつか、手を離れるその日まで
どうか大事に守らせて。
いつか、遠くに行く日には
姿が見えなくなるまで見送れたなら
きっと、幸せ。
【お題:宝物】
自分がこれまで歩んできた道
そこに 色んなこと 色んなもの
色んな人との出会いがあって
それらが いまの自分を作っている
宝物がたくさん詰まった
私の人生
これからも続いていく
#宝物
#36
キラッ 光った ビー玉
くるくる 片目でみた世界は
綺麗とばかりに数十分も
まわした万華鏡
紙の着せ替え人形は首が
よれたり 着せ替え紙服
破られたら 泣き出し 新たな
着せ替えを買ってもらっていた
小さい ぬいぐるみ と
大きい くまぬいぐるみ テディペアではない くまのプーさんでもなかったが 私には弟とだよ
偉そうな ことを 話していた
ぬいぐるみ だから
話しできないんだ
勉強や 宿題が ないなんて
いいな だったかな
そんなこと 話したかと
普段は大きいくま弟を風邪ひかないで
なんて 布団にいれ
私が抱きしめていながら 抱きしめられていたのかも そうして睡眠していた
だが ある夜 私は他にも
ぬいぐるみが 机棚に閉まっては
出していたものが 5から10個は
あった
小さい ぬいぐるみ も
一緒に 睡眠 棚なかに置いてき
ぼりなんて… そんな
感情だったかは
はっきりはしないが
弟くまぬいぐるみ を まず
布団に 小さいのは
寒くないかな 頭上とか
弟くまぬいぐるみ と 私の
間とか 並べた
だが 翌朝 私は 悲しみに
気持ちは一杯に なる
朝 ぬいぐるみ達は 私の周りから
散らばり樣が
幼さい私中 ぬいぐるみ達を大事にできなくて
とか 可哀想なことした
私を咎め責めた だが 次の夜も
棚に入ってる ぬいぐるみの目を
みたら なんか辛いの やっぱり
棚なか から でて 一緒に
睡眠したい なんて なって
やはり並べた
朝目覚めたら
大きいぬいぐるみは 横に
だがやはり小さいぬいぐるみは頭上だけでなく
並べた位置より 遠い場所や
足元に 散らばりさ
また 私を咎め責めた
だが 数日はそうした夜から
朝をむかえていた
咎め責めた私に疲れたか
ぬいぐるみ達に悪いと感じたか
ぬいぐるみ達棚なか
目をみても ぬいぐるみ達が
一緒に を 言ってるかのように
瞳 目が そうみえた
寂しいそうと
でも 決めた 覚悟をした
夜布団に並べたら余計に可哀想かも
やはり 小さいのは 棚に
ひとりでないからね
みんな棚なかだから 明日遊びましょうを 話した
万華鏡 や ビー玉 着せ替え人形
ぬいぐるみ 幼い頃の 宝物
今や 絶対的に 全ては
私の部屋に 置きたくはない
1人暮らし 掃除が 苦手に
断捨離さが気持ちいい
スカッとしている
たまに捨てないでいたらなんて
なる有り様でも たいして
困らない
幼さない 頃 着せ替え人形は
箱なかに 沢山過ぎに
万華鏡 ビー玉
弟くまぬいぐるみ 小さいぬいぐるみ
全ては 宝物だった
あの 全てが 消えたが
必ず私に なんらかを
育むはしてくれただろう
幼い 私への宝物
何処にしたさは 勘弁を
「宝物」
宝物…宝物…
うーん、どうしよ。
宝物
人にはそれぞれ大事にしたいものがあるだろう
それは家族や友人だったり、ぬいぐるみや本だったり
そういうのを宝物と言ってもいいのかもしれない
#宝物
経験とか、記憶とか。宝物というと、そんな形のないものを思い浮かべる。
今の私が一番大切にしたいと思っているものは、この平和な日常。
いつ崩れるかわからないと常々思う。だって、何があるかわからないもの。
地震や火事、天災、もしかしたら事故や病気。
一瞬の不注意で全て失することだって容易にあり得るわけで。
そうなると、「今が人生史上一番若い」のと同じく、「今が人生史上一番幸せ」と思っているから、この日々が一番の宝物ということになる。
仕事を辞めて、真っ先に感じたのは、「嫌いな人に会わないってことがこんなにも幸せなものか」だった。
職場に嫌いな人がいて、その人のせいでうつ病にもなった。
いや、嫌い抜いているのならばいっそ良かったのかもしれない。なまじ「いいところもあるしな」なんて思っていたのがよくない。
盲目的に他者を「良いもの」と思っていた頃は想像もしなかったけれど、他人なんて、心底嫌ってもいい。それが今ならわかる。
私はどうしても自己に「ダメなところ」を探しがち。
自分が悪いからあの人は私に対して不機嫌な態度を取るんだ、とか。
自分が悪いからあの人は意地悪するんだ、とか。
違うの。「あの人」がクソなだけ。本当にそれだけのことで、自分を責める必要はない。大抵の場合、原因は「あの人自身」にあって、こちらはとばっちりを受けているだけなのだ。
仕事って、好むと好まざるとに関わりなく、人間関係を築かなくてはいけないじゃん。
嫌いな人と一緒に働くことも多いし、好きな人とばかり仕事ができるわけでもない。
だからさ、どう考えても毎日必ず嫌いな人と会うって生活は、やっぱり無理だよ。あはは。
そういえば、前述の「あの人」に会わなくなって(仕事を辞めて)、新しく腰掛けパートを始めた時。
前任者が、これまたハイパー性格合わないマンだったの。
まさに「最も合わないタイプ」ってこういう人なのか!と開眼した。
それまでの「二度と会いたくない人」なんてかわいいもんじゃん、って痛感するほどの、合わない人。
前任者ということで職場に留まるわけではない(一緒に働くわけではない)けれど、引き継ぎされてるだけで無理で、しかも現場と院長で見えているものが違うというパターンの職場だったり、面接で言われた業務とは全く異なることを最低賃金でやらされそうだったんで、すぐに辞めた。
うつ病が再燃してメタメタになってしまい、最終的には旦那さんに辞めることを伝えにいってもらうという体たらく。まあ、そもそもうつ病から寛解する前に働こうとしたのが間違いだったわけだけれど。
そういう日々があって、今の引きこもり生活がかけがえのないものだと感じる。
専業主婦って適正があるから、難しい人には難しいんだろうなと思うよ。やったことない人からは想像もできないことが日々山積するしね。きっとそんなにいいものじゃない(あくまでも向き不向きの話。向いている人には天国)。
手垢のついた結末だけれども、家族が元気でいてくれることが、一番の幸せで、この生活が宝物だと思う。
2023・11・21