『同情』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
同情
人間、特に日本人は、『同情したがる』
ような気がする。
同情されると、
「分かってくれる」と思うし、
安心感を得ることもできる。
こうして、友達になることも少なくない。
逆に、同情されないと、
「この人とは、意見が合わない」と思うし、
「これでいいのか。」という
不安に襲われる人もいるだろう。
だから、『同情したがる』のだと思う。
でも、このままでいいのか?
ただただ他人に同情していると、自分の思っていることが言えなくなり、自分に自信を無くし、心に傷を負うことになるのではないか?
それが、今の日本人ではないかと私は思う。
でも、安心してほしい。
こんなに偉そうに語っている作者も、いわゆる『同情したがる』人間だ。
心に傷を負う前に、少し意見を言ってみるのはどうだろう。
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なんか説明文っぽくなってしまいました。
分かりにくかったらすみません。
受け入れられなくとも、見てくださるだけでも嬉しいです。
あと17で、❤︎が、600に到達します。
ずっと思っているのですが、私が投稿してから、数時間経つと、毎回❤︎が10と少しついています。(もちろん日によって違いますが)それを見るとまた書こうという気持ちになるので、ありがたく思います。
もしかしたら、前から私の文をよんでくださる方もいらっしゃるかもしれません。
それはそうとも、前から読んでくださる方も、初めて読んでくださった方もこんな文を読んでくださりありがとうございます。長文失礼致しました。
別にそんなのどうでもいいんだよ!
アドバイなんていらない
"ただ聞いて欲しい「うん、そうだね」って
言って欲しいだけなの''
【同情】
どうしようもなく傷ついたり、些細なことで塞ぎ込んだりしたことは誰でも一度や二度あるのではないだろうか。自身に向けられた悪意や、挫折や躓きから気持ちが下向いてしまう。そして、そこに追い打ちをかけるように辛いことが重なり心を苦しめる。私の人生はまさにそうであった。しかし私の周囲には相談を出来る人というのがなかなかいなかったが為に、自分の力だけで乗り越えることしか出来なかった。乗り越えられたのだからいいのだろうが、人の真っ直ぐな善意や協力でもって共に乗り越えてみたかったのだ。気持ちによりそう人間すらいなかったのだから、私の人生とは実に情けのないものだとしみじみと感じる。
友人や知人が方を落とし、目を伏せている時というのはどうしたものかと自分も気持ちが落ち込んでしまう。なんと声をかけると良いのか、なんと励ませば良いのかまるで分からない時がある。もちろん、簡単に声をかけることは誰でも出来るだろうし、今までもそうしているだろう。私もそうだ。しかし、相手が真っ直ぐ気持ちや想いを伝えてくれればいいのだがそうもいかないといというのはあれものだ。相手が深く塞ぎ込んで閉まっているときや、心を抉られるように傷ついているとき。紛らわせることの出来ない苦しみや悲しみに苛まれているとき。なんと言葉にして良いのか分からないあ程に追い詰められているとき。そんな状況では、どれだけ親しい仲であろうと解決することは実に難儀な事だろう。かと言え、何も声をかけない訳にもいかない。これが恋人同士であれば、こうしたことから喧嘩に発展することもあるだろう。なぜ声をかけてくれなかったのか、心配もしてくれないのかなどと責め立てられてしまうこともあるだろう。誰も見な人間だ、そうした時冷静に話し合える人というのはなかなかいない。人というのはむき出しの感情に敏感に反応するからである。そして、恥ずかしながら私もその一人だ。故に、普段は心を無にするように心がけているが、いやなに簡単なことではない。未熟な人間なもので、ついと反応してしまうのだ。
人というのは我儘なもので、放って置かれるとそれはそれで腹が立つが干渉されることも嫌う。人には適度な距離感であるパーソナルスペースがあるように心のパーソナルスペースも存在する。そしてその上で適度な接点というのがある。人の気持ちというのもここに触れるか触れないかというのが実はとても重要で、たとえどのような言葉や気持ちもこの距離のどこからかけられるかで大きく変わってくるものだと考える。人それぞれに心地の良い距離感というのが物理的にも、精神的にも存在している。その距離の遠いところからかけられる言葉というのはまるで響きもしないが、触れられたくないというギリギリのところからかける言葉や伝えた想いはズシンと響く。簡単に言えば人は欲張りなのだ。もちろん、これは本人の無意識の中でのことで、責めるというのは間違いであることは言うまでもない。
例え仲の良い気心知れた人間から情を寄せられようが、見ず知らずの人間から情を寄せられようが人というのはその一時というのはか心が動く。嬉しくなったり、憤慨したりする。自身の情緒を察して、或いは気持ちを汲んで同じ思いで寄り添おうとしてくれる人間は少ないよりは多い方がいい。というのは、誰も見向きもしないよりは一人でも多い方な気持ちの面では有意義だからだ。もちろん、意に反する言葉もあるだろうがこれはとても大事な事だ。いちいち余計なところへ気持ちを向けることができるからである。いつまでも一点に集中し続けると上手くいかなくなるのは、何事も共通している。しかしながら人というのは寄り添われるとありがたくも感じるが、ときに疎ましくも感じるもの。自身の情緒に同調し寄り添おうとされると、それが意にそぐわないということもある。つまりどっちつかずで我儘で勝手なのだ。いやなに、それは何も悪いことではない。大事なのはそういった人間の単純さと面倒な所を意識していけことだ。その上で上手く付き合うことに他ならない。
恋人が機嫌を悪くしている時、なんと声をかけたらいいのだろうと悩んだことはあるのではなかろうか。なぜ機嫌が悪いのだろう、具合が優れないのだろう。これは考えても仕方の無いことだ。何故ならば、恋人であれ家族であれ所詮は他人で、一人の人間なのだ。では、できることはなにか。 簡単な話だ。聞けばいい。まずは聞くのだ。それが自信に向けられた文句や恨み節でもまずは耳を傾け、相手の心情に寄り添うのだ。その上で、自分自身の感情や勝手な気持ちは置いておいて相手の立場になって客観的に考えてみる。そうすることで、なかなか見えないものがみえてくるものだ。
簡単に言えば、人というのは同情されることに良くも悪くも敏感だ。それでいて無関心を貫かれるとへそを曲げるのだ。上手く付き合うには無責任な干渉を避け、寄り添うこと。場合によっては突き放すということがとても大切だ。
私の人生、周囲に情を分かった人は余りいないが
いつもどんな時も寄るも離れるも上手く付き合いをしてくれた大人たちがいた。今思えば、これは彼らなりの同情故の行動だったのだろう。
同情で付き合わないで!!
よく言われてきた言葉だ
同情で付き合ってた訳では無いけど
はたから見たらそう見えてたのかもしれない
もし自分がそっち側だったら
同じことを言うかもしれない
はぁもうめんどくさい
「みたいなこと前言ってませんでした?」
「僕過去のことは忘れるタイプ〜。」
それが今はこんなぞっこんになるとは
でも心配なのは相手の方同情なのか
聞きたいけど怖い
自分の過去付き合ってた子もそんな気持ちだったのか
「俺は同情で付き合わないですよ。」
そうニッと笑った
もう大好きだ
それは
天上から垂らされるか細い糸のような
意地の悪いものであって欲しくないし
さあ、僕の顔をお食べ と
身を削るようなものでもあって欲しくない
春待つ樹洞のヤマネのたち
南の海を目指す魚の群れ
同じ病を抱えて生きる者たちの
分かち合いであるように
『同情』
『同情』
「貴方に私の気持ちなんて分かるわけない」
同情される度思う。
それが悪いことかなんて分からないし、
良いことかも分からない。
人の話聞いて、そうだよね。って納得するのも
同情に入るのかな
難しい。
――『同情』なんて、
哀しくて、虚しくて、惨めで、余計に辛くなるからいらないって強がりました。
そうして強がっているうちに人からの『優しさ』を見失って、『独り』になりました。
今では『同情』はありません。
『優しさ』もありません。
ちゃんと『一人』で強く生きなければなりません。
同情される時は惨めで辛くて、
やめてくれって思うけど
気づかないうちに自分もやってるものなのよ。
それに気づけない自分がいちばん惨めなの
「同情は決して悪いものじゃない」
メガネちゃんはそう言って、黙々とインスタを見ている。私も横から覗き込んでみたけど、画面にずらりと並ぶ投稿のゴテゴテした感じにうんざりした。
だから体勢を戻して、さっきメガネちゃんが言ったことを考えてみる。
「……『可哀想』ってさ、明らかに下に見てるのに?」
「受け取る方が卑屈になってるだけ。もちろん本気でそう言ってる人もいるかもしれないけど」
逆になんで全員が全員、そうだと思うの?とメガネちゃんは首を傾げた。
確かにそうかもしれないけど。
勝手に寄り添われてもなぁって感じだから、私は同情ってよくないと思う。
「やっぱり同情はよくないんじゃないかな?」
「でも同情って、相手の気持ちを想像して理解しようとすることでしょう?さっきの例は置いといて、それって悪いことなの?」
「んー……それって共感じゃない?」
「じゃあ、同情と共感の違いってなに」
言葉に詰まる。
どっちも相手の気持ちや苦しみを理解して、寄り添うこと寄り添おうとすること。
二つの違いは何だろう?
もし誰かに寄り添ったら、『同情はやめて』って言われるのかな。自分はその人の気持ちに共感しているのに。
「メガネちゃんの言う通り、受け取り方の問題かも」
「どういうこと?」
「受け取る人が『同情だ』って思ったら同情で、『共感だ』って思ったら共感なんだよ」
メガネちゃんが顔を上げて、ちょっと私を見つめてから眼鏡をとった。
「またひとつ、答えが見つかったね。パーマちゃん」
***
皆さんは『同情』と『共感』の違いはなんだと思いますか?
なぜ共感は良いイメージがあって、同情には悪いイメージがあるのでしょう。
誰かと話してみると、結構楽しいかもしれませんよ。
同情
同情なのかは
分からないけど
悲しい時は
分かち合いたいと思う
ツライ時は
寄り添いたいと思う
何も出来ないかもしれないけど
側にいたいと思う
自分もそうしてもらえたら
ありがたいと思う
【同情】
貧相な経歴です、
書くこともないです、
真っ白で潔癖です、
品行方正なら売るほどあります、
爪に滲んだ血の痕を隠すのは得意だから
そんな眼をしないで
見ないでって、
言えるはずもないのに
作り笑いの練習を
やすやすと超えてくる、君が
そんな眼をしていて
それでいて、
忘れたくないなんて
生まれて初めての我侭を
優しく打ち砕いていく、哀れみ
「あの子可哀想にねー」
なんて同情は、なんの役にも立たない同情だ。"あの子の不幸"を見世物にしているか娯楽の一種にしているだけ。世の中にはこういった同情が溢れている。
ただ、時々。
"その子の不幸"に対して手を差し伸べてくれる同情も、ある。それは些細な行動かもしれないけど、その子を少しだけ救うのだ。
口で同情するのは簡単。
行動の同情は難しい。
故に尊い。
「同情」
ただ
慰めただけ
私は君に
自分を重ねただけ
そんなの
優しくなんか
ちっともない
だから
優しいだなんて
思わないで
思わないでよ
#同情
同情とは…
他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように親身(しんみ)になって共に感じること。
かわいそうに思うこと。
あわれみ。
おもいやり。
人を思いやる気持ちは尊い
“同情”にもいろんな表し方がある
大袈裟に騒がずそっと寄り添える
そんな“同情”がいい…
“同情”されすぎるのも
“同情”しすぎるのも
なんかちょっと違うかな?
放っておいてほしい時って必ずあるから…
人の気持ちを察して
絶妙な距離感でいられる
そんな人になれたらいい…
🌈黒猫のつぶやき🌈
「同情するなら金をくれ!」
昔のドラマで子供が言ってましたね~(笑)
俺は小さい頃に両親に捨てられた。
だから俺はずっとスラムで暮らしていた。
両親は俺の事が邪魔だったらしく
それを知ったばぁちゃんが育ててくれたらしい。
貧しかったけど毎日が楽しかった。
それなのに、、、、
ふざけんな!!!
ある日いきなり俺の親だと言う奴らが現れた。
俺を見つけるなり泣いて
「良かった」「会いたかった」
などと言いだした。
周りにいるテレビ局の奴らも「今までよく頑張った」「もう大丈夫だよ!」「可哀想に」
と口々に色々言ってくる。
俺はもう限界だった、、、
だから俺は周りにいる奴らに言う
『 同情するなら金をくれ!!!』
✨❇️同情✨❇️
何も食べれなくなって
もう2週間…
ここ数日は水も飲めなくて…
痩せて…
小さく小さくなってゆく体
それでも動こうと
それでも生きようと
一生懸命な愛猫ナナ
健気な姿に涙が溢れる
同情なんかじゃなくて
ただ ただ 切なくて…
✨✨✨😢✨✨
『同情』
どれだけ誰かに厭われようと
私は普通に生きている
ご飯を食べて学校に行き
疲れて帰って早く寝る
愛するあの子を守りたいのも
他と変わりはしないでしょう
嫌われるのは構わないけど
哀れみだけは願い下げ
私もあの子も普通に生きてる
同情なんていらないわ
同情はしない
同情もされたくない
するなら
同調したい
同調されたいかも。
同情
自分に全く縁のない言葉。
そこからは何も生まれない。
ネガティブで、しっとりとしていて重みがあって。。
それは人を堕落させ施しを受ける側のTakerを想起させる。
そんな重みのある甘みと苦味と少しのスパイス。
そんな感じ。
あ、そこから生まれるものが愛であるときもあるとか。
決して少なくはない数だとか。
同情?
そんなのいらないよ、
ていうか関係ない。
そもそも同情してくれる人が居ないんだもの。
Byそこら辺の中学生