カラフル
俺は1時間前の弟との会話を思い出していた。
あのとき、俺が弟の上着に手をかけたとき、弟は困ったように眉を下げていた。
それでも、「兄さんがいうなら……」と、弟は俺の眼の前でTシャツを脱ぎ、着古していたスウェットを脱ぎ捨てた。
弟は俺の目の前で吐息をもらす。
「兄さん……俺はすべて兄さんに任せるから……」
そうして、弟は寝室のベッドに横になる。
俺はそんな弟を見て決意を固め、準備のため部屋を出る。
そして、風呂場のドアを開けた。
〜〜〜〜〜
1時間半後。
いつの間に…………寝てた。
「兄さん、大丈夫なんだろうな」
なんとなく嫌な予感がした俺は、ベッドから身を起こすと、風呂場へ向かう。
近づくにつれ、柔軟剤と洗剤が混じり合ったやたらフローラルな香りが強くなってきた。
「兄さん……」
俺はゆっくり風呂場の扉を開けた。
〜〜〜〜〜
弟にどんな顔をしたら良いのかと、俺は途方に暮れていた。
カップ三杯ずつ入れた、弟が好きな香りの洗剤と柔軟剤のせいなのか、香りがきつい。
洗濯機から溢れ出している、小さな泡の表面が虹色に輝くのを見ながら、美しさだけではないため息を付く。
俺は弟が洗濯物を取りに来る前に、この状態をなんとかしようともう一度泡だらけになった洗濯物をすすぎながら、床にあふれ出した細かい泡を何度も雑巾で拭いた。
〜〜〜〜〜
あれ以来、俺は汚名返上のため、洗濯をもう一度すると弟に言った。
だが、「もういいよ、兄さん」と、遠い目をして断られた。
このままでは兄のメンツが立たないのだが。
しかし、弟には「今のままの兄さんでいいんだ」
優しい目をしながら微笑んでいた。
だが、いつか俺は弟に認めさせてやる。
俺の家事能力を。
善悪
明るい光が照らす、白を基調とした部屋の中。
俺は緊張しながら眼の前にいる白上着を羽織った一見冷たい印象の男――30代くらいだろうか――の言葉を待っていた。天井の明かりを受けて輝く、軽い巻き毛の黒髪の男の整った体と比べ、俺は自らの下腹が緩んだ体を恥ずかしく思う。
その男は、まるで祈りを捧げるようにうつむいていた俺に、一枚の紙を手渡した。
俺はその紙に書かれた内容に目を通す。
紙に記された言葉の意味のほとんどは理解できなかったが、一部読み取れたその内容は、善と呼ばれるものは少なく、悪と呼ばれるものが多かったのだ。
俺は絶望の眼差しで紙を見つめていた。
すると、眼の前にいる白い服の男が口を開いた。
冷たい印象が、一気に柔らかくなる。
「確かにあなたも自覚しているとおり、結果は良くなく、バランスが崩れているのです。しかし、それを整えるためには、まさにあなたの行動が必要なのです」
俺ははっと顔を上げ、白い上着の男に詰め寄った。
眼の前の男は、俺の迫力に戸惑っていたが優しい声でゆっくり語りかけた。
「まず悪玉コレステロール増やさない生活と、
善玉コレステロールを増やすような生活をすることが大事ですよ」
そうして俺の眼の前にいる医者は、今後のライフスタイルへの提案をする。
俺はその言葉を、うなだれながら聞いていた。
流れ星に願いを
それはどうしても避けられない事はわかっていた。
それでも願わずにはいられない。
だから俺は願う。
どうか、どうか……兄さんが、俺の……
俺は空を見上げながら、流れ星を待った。
*****
俺が残業を終え、家に戻りドアを開けると、中は真っ暗だった。
まだ、弟はバイトから戻ってきていないのだろうか。しかし、今日はバイトも夜の講義も無いと言っていた。
サークル仲間と飲みに行っているのだろうか?
だが、その連絡もない。
ただいまと言ってみたが、返事がない。
俺はリビングの明かりをつけようとしたとき、弟が窓の外から新月の空を見上げていたのが見えた。
こんなに街の灯りがあるところで、星など見えはしないだろうに。何をしているのか。
俺は疑問に思っていたが、今日の天気ニュースで、どこかの星座のあたりから流星群が見られると言っていた。
もしかしたら、明かりもつけずに流星群を見ようとしていたのか?
弟は、流星群が見られるという方向に頭を上げたままじっとしている。
まさか、流れ星に願いをしているのではないのだろうか。
俺はリビングのライトをつけようとしたとき、弟が俺の気配を感じ取ったのか、俺の方を振り向いた。
新月の闇の中で弟の顔には影がかかっていたが、何かを訴えるような瞳で俺を見つめる気配がした。
俺と弟の視線がぶつかる。
弟は立ち上がり俺の方へ近づくと、震える唇で俺に言いづらいであろう思いをぶつけてきた。
俺はその弟の想いを受け止めた。
そうして、リビングの明かりをつけ、椅子に座るよう弟に促した。
*****
「どんなに考えてもレポートが進まないんだ! 頼む兄さん! 俺の代わりにレポート書いて!!」
明るいリビングで、弟は俺に向かってダイニングテーブルにぶつけんばかりの勢いで俺に何度も頭を下げてきた。
「それは自分で頑張れ」
俺は弟の願いを受け止めたが、応じるとは一言も言ってない。
第一、レポートは弟がするべき課題だ。何故俺に頼るのか。
「そこをなんとか! 明日が締め切りなんだ!!」
弟は涙声で俺に言うも、俺は弟へ言わずにはいられなかった。
「流れ星に願う時間を使って書けばよかったのでは……」
お題:雫
私が一瞬、ほんの一瞬だけ目をそらしてしまっただけで、今まで積み上げてきたものがすべて失われてしまった。
積み上げるのには、とてつもない努力と時間とアイデアを注いできたのに。
どれだけ雫のような涙を流しても、全てはもう、取り返せないのだ。
思い出も記録も保存していなかった。ましてや形などかけらも。
軽く見ていたのだ。
本当に少しだけ目を離すことで失われるなどと。
どんなに泣いても、時間も努力もアイデアも戻ってこない。
また一から積み上げていくには、あまりにも辛くて。
かつて築いてきたものを、もう取り戻せない現実を受け入れるのが難しくて。
他(ゲームを立ち上げた)に浮気するんじゃなかった。
執筆中に他のアプリを開くんじゃなかったと。
後悔してももう遅いのだ……。
―――――
多分一度は経験あると思います。
ちょっと他のアプリを立ち上げて、ココに戻ってきた時に、せっかく書いたものがすべて消えているということが……。
お題:何もいらない
俺は今、何もいらないと強がっている。
あと少し、あと少しだけなんだ。
あと少し我慢すればいいだけのことなんだけど……
分かってる。俺のこの思いが、願いが不条理なことはわかっている。
俺はカレンダーと財布を見ながら、何度もため息を付いた。
そんなときは兄さんの顔がよぎる。
だけど、どんなに乞い願っても、兄さんへこの願いは届かない。届いたところで、決して受け入れられるはずのない願いだから。
だからもう、何も期待しないと。
言い聞かせても我慢できない思いを抱きながら、午後から授業の俺は、朝10時頃に震える手で兄貴のドアをノックした。応答はまったくない。
よく考えたら、兄さんは出勤していた。そりゃいないよな。
俺は空きっ腹を抱えて午後の講義に出るのだった。
……ここのところ俺は、兄さんの顔を思い出しては、顔を見ては、何度もため息を付いている。
決して無理とわかっていながら、それでも期待してしまう自分が苦しい。
言い出せない自分が、とても苦しい。
そんな思いを抱いて2日後。
夕食を食べているときに、兄さんが俺の名を呼んだ。
「どうしたんだ。ここのところ俺の顔を見ては悩んでいるように見えるのだが、何か言いたいことがあるのか?」
「うっ」
俺は慌てて首を振った。
「それなら良いのだが」
兄さんはそう言うと、再び食事を始める。
食事の間中、俺達の合間に嫌な沈黙が落ちる。
しばらく続いた沈黙を破ったのは兄だった。
「本当に、何もないのか?」
兄さんが、うつむいている俺に向かって名前を呼んだ。
ドキリ。
俺の心臓は高鳴った。
兄の顔を見ることが出来なくて顔を上げられない。兄さんは一体どんな顔をしているのだろう。それがとても怖かった。
その時が来たのだと、覚悟していた。
兄さんに、この思いはすでに届いていたのだろうと思って、俺はぎゅっと目をつむった。
もう、黙ってはいられなかった。
「兄さん、俺はもう兄さんからは、今は何もいらない……返せないから。だから借金の返済だけは待ってほしいんだ」
「そうか。分かった」
兄はあっさり俺の願いを聞き入れてくれた。
俺の胸のつかえが降りて、ホッとしていると兄が続けた。
「今日はボーナスが入ったからお前が欲しがっていた財布を買ったのだが、俺からは何もいらないようだな。ならば俺が使うことにしよう」
「えっ」
それとこれとは全然別だから!!
待ってー!!
何もいらないなんてそんなことないから!!
俺は兄さんの言葉の取り消しを乞い願い、だいぶご機嫌を取った後、欲しかった財布を貰ったのだった。