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7/30/2023, 10:50:20 AM

「澄んだ瞳と聞いて、君は何を思う。」
教授が僕にそう問いかけた。

「人の瞳でしょうか。何かを頑張った人とか、慈愛の視線を思いつきました。」

「…そうだったな。」

教授は物静かで、少し会話が歪な人だったから話はそこで途切れてしまった。僕には教授の質問の意図が読めなかったけど、きっと凡人にはわからない何かを深く考えているのだろう、そんなことは察せた。


次の日も僕は研究室へと向かった。
「頼まれていた資料、ここにおいておきますね。」

「……」

カタカタとキーボードを打つ音がする。
昼過ぎ、閉めているはずの窓から春の妙な暖かさがこちらを覗き見をしている。少しうざったい。

「教授、もう一年になりますね。」







僕が死んでから。







教授は生物の細胞研究の最先端の研究をしている人だった。

僕はその助手として努めながら自身の研究も進めるという、学生ならではの忙がしさをその身で感じつつ、日々を過ごしていた。

僕の研究は教授の研究とは正反対で真っ向から対立するような意見の証明だった。世間一般に広く認められた教授の論理を覆そうとする異端児の僕にも手を伸ばして不器用ながら支えてくれたのは他ならない、教授だった。

「君の研究が証明され、世に出れば今以上にたくさんの人が救われるだろう。」

そういい、自分の人脈をこれでもかとふんだんに使って支援してくれる人を探してくれた。


教授のおかけでようやく研究が軌道に乗ってきたとき、俺は刺された。

犯人は同じ研究室にいた奴だった。
友人だった。忙しい研究の合間に飲みに行ったり、互いの研究内容に指摘し合ったり、夜ふかししながらビール片手に論文を読み明かした夜もあった。次の日は教授の授業サポートなのに、結局一睡もせずに遅刻しそうになりながら会場に走った。教授は不愉快そうに片眉を上げていつもの無表情に戻ったあと、ため息を付いた。どうやらお咎めはないようだ。




ふと現実に戻された。



お前はたまに変に怯えた顔をする。
その瞳は何を見つめているかわからないほどに濁っていた。

「…死んで、幽霊になって。
 それでもお前は…なんで笑うんだ。」

「幽霊は驚かすものじゃないのか?」

「いや、違う。違うよ。違うんだ。本当にすまなかった……殺すつもりはなかったんだ…ごめんな…ごめんなさい。」










「またか。そんなに思い詰めるのならばやらなければいいことを。」

そう言い、警官の服装をした男がこちらに近づいてくる。






一瞬誰のかわからなかった。

警官バッチには澄んだ瞳をした気弱そうな男がこちらを見つめていた。

7/29/2023, 10:35:50 PM

「嵐が来ようとも、この道を進まねばならぬ。」


名もなき村に一人の少年がいた。オギャーと泣き喚き、この世に生あるものとして産み落とされた彼は家業で育てていた牛の乳ですくすくと成長した。いつの間にやら父親の仕事を手伝い、稼ぐ。そんな年齢になった。夜もつきっきりであやしていた日々は過去のものとなった。

平凡な人生が続くのだろうと、誰もがそう思って疑わなかったし、皆そう願っていた、心から。

少年は男になった。
一人の女性と出会い、二人だけの愛を形作った。
数え切れないほど喧嘩もしたし、その分、仲直りもした。
周りからは身分の違いなどから猛反対されたが、辞めろと言われても二人はとどまることなどなく、むしろ加速させていった。
試行錯誤しながらできた二人だけの愛情はいずれ三人のものとなった。子供の頃に親からもらった愛情で自らの手や言葉を通じて、愛を、生まれてきた幼い命に何年もかけて一つ一つ丁寧に伝えていくのだ。たとえ子供が道を踏み外したとしても、立派に成人するまではそれを受け入れ、怒り、叱り、またともに食卓を囲むのである。

そんな、ありふれた普通の幸せを見てしまった。




男は大雨の中、断崖絶壁に立たされていた。

右手には一輪の薬草がこれでもかと固く握られていた、と捜索隊は言う。あの嵐の中では村一番の屈強な男でも無事には帰ってこられなかっただろう。そんななか、ただの牛飼いの男が右手だけではあるが、薬草を握った状態で見付かるなんてことはとても幸運だと言える。

男は崖から転落後、川に流されたのだろう。
泥だらけの服と傷だらけの右手には女との婚約指輪があった。
稼げないなりに自らの誠意と覚悟を持って渡した指輪だったのだろうか。

妻は病状が悪化し、男が見つかる三日前の夜に死んだ。
その左手には男と同じデザインの指輪がはめられていた。
他の指輪を買う金銭的な余裕はなかったのか、傷だらけである。
それでも大事そうに両手で抱えながら横たわる冷たい死体には不自然な、明らかに人為的につけられた縄がついていた。
気持ち悪いと死体に見慣れた捜索隊でも生理的に感じるくらいには不気味に笑っていた。今にでも喜びでワルツでも踊りだしそうなほどきれいな笑みを浮かべていた。手は不自然に玄関の方へと流れとていた。まるで何かを求めるかのように。

二人の家は村から少し外れた川の前にあった。
捜索隊は男の腕をその川で見つけたようだった。
嵐の中、死んだあとも女を求め彷徨っていたのだろうと捜索隊の誰かが言った。

三日三晩も食い物を食べられずトイレにも行けず、水も飲めなかったであろうその死体は間違いなく二人の子供のものであった。




男は女を愛していた。
女も男を愛していた。

男は牛飼いの息子で平民だった。
女は村に古くから伝わる一族の娘で貴族だった。

身分の違いによって二人の間に価値観の違いが生じた。

男は家業をし、家事をし、子供を育てていた。
女は何もしなかった、嫌できなかった。

女は仕事や家、子供ばかりに時間を取り、自分を愛してくれないことにストレスを感じ、子供に当たった。

男は子供を守るために女を殺した。
薬草は母親からつけられた虐待の痕を消すためのものだった。

身分違いの恋だったため、家族からは疎遠、離縁をされており、村からも端に追いやられた二人は狭いコミュニティのなかで肩身の狭い思いをしながら生きていた。

もし警備隊や家族がサポートしていれば?
体制がキチン整っていれば?
村人が警備隊に通報すればよかったのだろうか?

考えても答えは出ない。
残るのは何もできない、幼い命が散り、一つの家族がたったの3日で死んだということだ。更にその理由はウイルスなどではなく、虐待だったということだけだ。