「くっさ」
何気ない一言だったと思う。
明らかにふざけていたし、悪気も無かったんだ。
よく考えもせずただノリで言った一言は相手を傷つけた。
どれくらい傷付けたのかは分からない。
でも、それが相手にとって泣きたくなる様な一言だったのは確かだろう。
実際に泣き出してしまったから。
何故あんな事を言ってしまったのかは分からない。
たしか香水の話をしていた時、だった。
相手が香水を変えたようなことを言ってその事を笑ったのだが、言い出したのは誰だか分からない。
ただ皆が口々に「くさい」と言うものだから私もそれに乗っかったんだろう。
そう、きっと、言い出したのは別の誰かだ。
泣き出し、先生に気づかれ怒られた腹いせに私達は彼女を無視しだした。
幼稚だった私達はそれがどれだけ残酷な事なのか分かっていなかった。
いや、少なくとも私は分かっていなかった。
今でも思い出す。
ラベンダーの香りが私の鼻をくすぐった事。
その時の衝撃を。
まるで雷が落ちた時のように全身が硬直して上手く言葉が出なかった。
褒める事も出来ただろう。
その時の私には、彼女を庇うような勇気は無かった。
何年か経った今、お酒の匂いを纏わせながら夜道を一人、歩いていた。
人っ子一人いない夜道は都会の忙しさを忘れさせる。
ヒールの響く音を聞きながら確かな足取りで目的地へ向かう。
髪から滴る水は私の頬を伝い地面に落ちる。
その水滴は雨に混じって直ぐに分からなくなった。
目的地へつくと昔のメンバーが揃っていた。
そこには彼女の姿もある。
昔の面影があるのか、ないのかすら分からなくなっていた。
今更友達ヅラをしたって。
急に罪悪感が押し寄せてきて吐き気を催し急いでトイレに向かった。
後ろからは心配する声が聞こえる。
彼女の声も混じっていた。
再び戻ると微かにバニラの匂いがした。
思わず声を上げて、その匂いが彼女からしている事に気がついた。
「…それ、匂い」
「……ごめん、臭かったかな?」
乾いた笑い声をあげる彼女に「そんなつもりはない」とはっきり言えなかった。
「え、いや、その」
しどろもどろしているとメンバーの一人が助け舟を出してくれる。
「いい匂いって言いたいんじゃないかな、違う?」
「そぅ……」
「よか…った」
言って見せた彼女の笑顔が眩しくて、私もつられた。
幸せな時間を過ごして、着々とメンバーが帰っていきついに彼女と二人きりになった。
「その、ごめんね。中学生の時」
「いいよ、なんで今更?」
「ずっと後悔してたから。本当はいい匂いって言いたかったのに、無視した事も謝りたくて」
「…いいよ、傷ついたけど昔の事だし」
「本当に?さっきだって…」
「気にしてないわけじゃないけど、いつも考えてる訳じゃないから」
「…最近、香水かったの」
「どんな?」
「よく分かんなくて…良かったらこれからも、時々会って香水のこととか教えてくれない?」
「いいよ」
ー香水ー
「お母さんね、貴方の事も大事だけれど本が次に大事なものなの」
そう言いながら僕らの頭を撫でる手は冷たかった。
「お父さん、さっきお母さんが」
僕が言うとお父さんは顔をしかめる。
「良いんだ、よしてくれよ。つまらない冗談はもういいから」
「冗談じゃないよ、だって…」
そこまで言いかけて今度は弟が口を開いた。
「でも、本当なんだよ。お母さんは生きてるんだ。お父さんも見れば分か」
「…っやめてくれよ!…ごめんな、だけど、辛いかもしれないけど、お母さんはもういないんだよ」
「お父さん…」
途端に弟が泣き出した。
「ごめん、大きい声だして。…もうやめてくれ、お父さんはこれからやる事があるんだ」
「分かった、おいで」
弟は泣きながら僕の後をついてきた。
弟の手をとりながら僕は考えた。
お父さんにはお母さんが見えないのだろうか。
何で見えないんだろう。
大人だから?
そもそも、何でお母さんはいるのだろうか。
本当に死んだなら僕達が見ているのはなんだ?
幻覚?
だとしたら、お母さんは何故僕達に触れられる?
実態はあるんだ。
僕だって触れられるし、温度もある。
匂いだってする。
だからといって、幽霊としてしまうのは…。
ここまで考えて、僕は諦めた。
考えたところで意味がないからだ。
お父さんは聞いてくれないだろうし、だいいち正体が分かったからと言って何ができる。
僕は無力なんだ。
子供ができる事なんて大してないんだし。
と、いきなり手を引かれた。
「お兄ちゃん」
「何?」
「お母さんの所に行こうよ」
「今?何で」
「不安だから、お父さん。お母さんが見えてなくて本を捨てちゃうかも」
「…分かった。行ってみよっか」
そして見事に弟の予想は的中していた。
「お父さん…」
「お父さん!何やってるの?!」
弟が詰め寄ると、お父さんは手を止めて言った。
「…あぁ、なんだ。どうせ誰も読まないんだから。それとも、お前はまだお母さんがいるとでも言うつもりか」
「そうだよ、ねぇ?お兄ちゃん、お兄ちゃん?」
「…違うよ、そうじゃないんだ。ごめん。お母さんはもう、いないんだ」
「お兄ちゃん?どう、したの?」
「弟なんて、最初から生まれてなかった」
「お兄」
「弟?何の話をして…お前、誰かから聞いたのか」
「違うよ。僕の中だけのお母さんが教えてくれたんだ」
「は?お母さんって…」
「弟はいたんだ。ただ、生まれてないんだ」
「……」
「お父さん、本、捨てないでよ」
「…あったって邪魔なだけ」
「違うよ、僕が読む。だから、それは捨てないで…」
「分かったよ、ちゃんと読むんだぞ」
「うん」
本は思った以上に面白かった。
そんな僕を見てお父さんは笑う。
嬉しそうに。
そして言う。
「お母さんにそっくりだ」
それが嬉しい。
ーいつまでも捨てられないものー